・・・近くまで汁粉屋が借りていたとかで、古い穴のあいた襖、煤けた壁、汚れた障子などが眼につく。炬燵を切ったあたりは畳も焼け焦げて、紙を貼り着けてある。住み荒した跡だ。「まあ、こんなものでしょう」 と先生は高瀬に言って、一緒に奥の方まで見て・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・と、初やが焜炉を煽ぎながらいう。羽織は黄八丈である。藤さんのだということは問わずとも別っている。「着物が少し長いや。ほら、踵がすっかり隠れる」と言うと、「母さんのだもの」と炬燵から章坊が言う。「小母さんはこんなに背が高いのかなあ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ そこへかず枝が、大きい火燵を自分で運んで持って来た。「ああ、重い。おばさん、これ、おじさんのを借りたわよ。おじさんが持っていってもいいと言ったの。寒くって、かなやしない。」嘉七のほうに眼もくれず、ひとりで異様にはしゃいでいた。・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・それは二月の末の事で、毎日大風が吹きすさび、雨戸が振動し障子の破れがハタハタ囁き、夜もよく眠れず、私は落ちつかぬ気持で一日一ぱい火燵にしがみついて、仕事はなんにも出来ず、腐りきっていたら、こんどは宿のすぐ前の空地に見世物小屋がかかってドンジ・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・奥の部屋に通されて、私は炬燵にあたった。 女はお酒や料理を自分で部屋に運んで来て、それからその家の朋輩らしい芸者を二人呼んだ。みな紋附を着ていた。なぜ紋附を着ていたのか私にはわからなかったが、とにかく、その酔っているお篠という芸者も、そ・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・なんにも書けない低能の文学少女、炬燵にはいって雑誌を読んでいたら眠くなって来たので、炬燵は人間の眠り箱だと思った、という小説を一つ書いてお見せしたら、叔父さんは中途で投げ出してしまいました。私が、あとで読んでみても、なるほど面白くありません・・・ 太宰治 「千代女」
・・・という子供の絵本を一冊買って来て、炬燵にもぐり込んで配給の焼酎でも飲みながら、絵本の説明文に仔細らしく赤鉛筆でしるしをつけたりなんかして、ああ、そのさまが見えるようだ。 このごろ私は、誰にでも底知れぬほど軽蔑されて至当だと思っている。芸・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・ 寒中には着物を後ろ前に着て背筋に狭い窓をあけ、そうして火燵にかじりついてすえてもらった。神経衰弱か何かの療法に脊柱に沿うて冷水を注ぐのがあったようであるが、自分の場合は背筋のまん中に沿うて四五寸の幅の帯状区域を寒気にさらして、その中に・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・なんだか炬燵を抱いて氷の上にすわっているような心持ちがする。そして不平を言い人を責める前にわれわれ自身がもう少ししっかりしなくてはいけないという気がして来た。 断水はまだいつまで続くかわからないそうである。 どうしても「うちの井・・・ 寺田寅彦 「断水の日」
・・・手水鉢を座敷のまん中で取り落として洪水を起こしたり、火燵のお下がりを入れて寝て蒲団から畳まで径一尺ほどの焼け穴をこしらえた事もあった。それにもかかわらず余は今に至るまでこの美代に対する感謝の念は薄らがぬ。 病人の容体はよいとも悪いともつ・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
出典:青空文庫