・・・ 肉を炙る香ばしい匂いが夕凍みの匂いに混じって来た。一日の仕事を終えたらしい大工のような人が、息を吐く微かな音をさせながら、堯にすれちがってすたすたと坂を登って行った。「俺の部屋はあすこだ」 堯はそう思いながら自分の部屋に目を注・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・これは毎夜の事でその日漁した松魚を割いて炙るのであるが、浜の闇を破って舞上がる焔の色は美しく、そのまわりに動く赤裸の人影を鮮やかに浮上がらせている。焔が靡く度にそれがゆらゆらと揺れて何となく凄い。孕の鼻の陰に泊っている帆前船の舷燈の青い光が・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ 六十日以上風呂にも入れず、むけて来る足の皮をチリ紙の上へ落しながら、悠然とかまえてることさと云う時、その主任の云ったことを焙るように胸に泛べているのであった。自分は、金のことを云わなければ半年経とうが帰さないと脅かされて、放ぽり込んで・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫