・・・お前たちの母上は亡くなるまで、金銭の累いからは自由だった。飲みたい薬は何んでも飲む事が出来た。食いたい食物は何んでも食う事が出来た。私たちは偶然な社会組織の結果からこんな特権ならざる特権を享楽した。お前たちの或るものはかすかながらU氏一家の・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ 今更じゃないけれど、こんな気立の可い、優しい、うつくしい方がもう亡くなるのかと思ったら、ねえ、新さん、いつもより百倍も千倍も、優しい、美しい、立派な方に見えたろうじゃありませんか。誂えて拵えたような、こういう方がまたあろうか、と可惜も・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・初めは何か子供の悪戯だろうくらいにして、別に気にもかけなかったが、段々と悪戯が嵩じて、来客の下駄や傘がなくなる、主人が役所へ出懸けに机の上へ紙入を置いて、後向に洋服を着ている間に、それが無くなる、或時は机の上に置いた英和辞典を縦横に絶切って・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・出る尻から本が無くなるので、出版屋は首をひねりながら、ともかく増刷していたのだ。増刷の本が出ると、またお前が買い占める。出版屋はまた増刷する。……この売りと買いの勝負は、むろんお前の負けで、買い占めた本をはがして、包紙にする訳にも思えば参ら・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・併しこの一円金あった処で、明日一日凌げば無くなる。……後をどうするかね? 僕だって金持という訳ではないんだからね、そうは続かないしね。一体君はどうご自分の生活というものを考えて居るのか、僕にはさっぱり見当が附かない」「僕にも解らない……・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・若し幸にして悟れたら其の苦痛は無くなるだろう」と言いますと、病人は「フーン」と言って暫し瞑目していましたが、やがて「解りました。悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と仰臥した胸の上で合掌しました。其儘暫く瞑目していましたが、さす・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・「そうら解った、私は去日からどうも炭の無くなりかたが変だ、如何炭屋が巧計をして底ばかし厚くするからってこうも急に無くなる筈がないと思っていたので御座いますよ。それで私は想当ってる事があるから昨日お源さんの留守に障子の破目から内をちょいと・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・包んで呉れたのが無くなると、再び父親にせびった。しかし、母親は、子供に堪能するだけ甘いものを与えなかった。彼女は、脇から来て、さっと夫から砂糖の包を引ったくった。「もうこれでえいぞ。」彼女は、子供が拡げて持っている新聞紙へほんの一寸ずつ・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・その母さんが亡くなる時には、人のからだに差したり引いたりする潮が三枚も四枚もの母さんの単衣を雫のようにした。それほど恐ろしい勢いで母さんから引いて行った潮が――十五年の後になって――あの母さんと生命の取りかえっこをしたような人形娘に差して来・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・いわんや私たち小才は、ぶん殴られて喜んでいたのじゃ、制作も何も消えて無くなる。 不平は大いに言うがいい。敵には容赦をしてはならぬ。ジイドもちゃんと言っている。「闘争に生き、」と抜からず、ちゃんと言っている。敵は? ああ、それはラジオじゃ・・・ 太宰治 「鬱屈禍」
出典:青空文庫