・・・クララは明かな意識の中にありながら、凡てのものが夢のように見る見る彼女から離れて行くのを感じた。無一物な清浄な世界にクララの魂だけが唯一つ感激に震えて燃えていた。死を宣告される前のような、奇怪な不安と沈静とが交る交る襲って来た。不安が沈静に・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・そうしてまたもや無一物の再出発をしなければならなくなった。やっぱり、サロン思想嫌悪の情を以て。 創作年表とでも称すべき手帳を繰ってみると、まあ、過去十何年間、どのとしも、どの年も、ひでえみじめな思いばかりして来たのが、よくわかる。いった・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・なんといったって、私は、ほとんど無一物の戦災者であって、妻子を引き連れ、さほど豊かでもないこの町に無理矢理割り込ませてもらって、以てあやうく露命をつなぐを得ているという身の上に違いないのであるから、この町の昔からの住民に対しては、いきおい、・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・の屋台を出し、野良犬みたいにそこに寝泊りしていたのですが、その路地のさらに奥のほうに、六十過ぎの婆とその娘と称する四十ちかい大年増が、焼芋やの屋台を出し、夜寝る時は近くの木賃宿に行き、ほとんど私同様、無一物の乞食みたいな生活をしていまして、・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・本来無一物の一書生が、一本の筆の先きにてかき集めたる財産なり。これまた偶然の僥倖なりといわざるをえず。いかんとなれば、当初、余が著述は、かつて身に経験あるに非ず、ただ西洋の事をたやすく世人に知らせんものをと思う一心よりこれを出版して、存外に・・・ 福沢諭吉 「成学即身実業の説、学生諸氏に告ぐ」
・・・身外無一物、ただ我が金玉の一身あるのみ。一身すでに独立すれば、眼を転じて他人の独立を勧め、ついに同国人とともに一国の独立を謀るも自然の順序なれば、自主独立の一義、もって君に仕うべし、もって父母に事うべし、もって夫婦の倫をまっとうし、もって長・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・あまりの貧しさ、貧しさ極った無一物から漂然とした従来の中国庶民の自由さとちがって、春桃は、稼業を見つけ出す賢さ、男二人をそれぞれに役立ててゆく才能、小さい店もひろげてゆく実際能力をもつ女であるからこその「誰のものでもない」こころもちを通して・・・ 宮本百合子 「春桃」
・・・一見文明的なそのくせ現実の社会施設に於ては無一物な荒野に、婦人は突き出されている。ショウが「人と超人」を書いた一九〇三年には自覚のある少数の男が生物的な力に虜になることを恐れ、それに抵抗した。一九四七年代になれば、この抵抗を非常に多数の若い・・・ 宮本百合子 「人間の結婚」
・・・ 彼等が極端な無一物でありながら、飢えと悲しみとの境遇の中で愚痴を云わず自分たちの拘束されない生きかたを愛していること、又、この人生に対して露骨な辛辣さを抱きそれを表明していること。それらがゴーリキイの心に好奇心を動かし、同情を惹きおこ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・彼等が、極端な無一物でありながら、貧と悲しみの境遇の中で自分たちの何にも拘束されない生きかたを愛していること、この人生に対して露骨な辛辣さを抱いていること、それらがゴーリキイの好奇心と同情をひき起したのであった。ゴーリキイは、この群のうちに・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの発展の特質」
出典:青空文庫