・・・ようやく無事に苦しみかけたところへ、いい慰みが沸いて来た。充分うまくやって見ようぞ。ここがおれの技倆だ。はて事が面白くなって来たな。 光代は高がひいひいたもれ。ただ一撃ちに羽翼締めだ。否も応も言わせるものか。しかし彼の容色はほかに得られ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・人々は祝った、その無事であッたを。人々は気の毒に思った、何事もなし得ないで零落れて帰ったのを。そして笑った、そして泣いた、そして言葉を尽くして慰めた。 ああ故郷! 豊吉は二十年の間、一日も忘れたことはなかった、一時の成功にも一時の失敗に・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・世の中は無事でさえあれば好いというのなら、これでよかったのだ。しかし若崎のこの答は、どうしても、何か有るのを露わすまいとしているのであると感じられずにはいない。「きっと出来るよ。君の腕だからナ。」と軽い言葉だ。善意の奨励だ。赤剥きに・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・妻として尊敬された無事な月日よりも、苦い嫉妬を味わせられた切ない月日の方に、より多く旦那のことを思出すとは。おげんはそんな夫婦の間の不思議な結びつきを考えて悩ましく思った。婆やが来てそこへ寝床を敷いてくれる頃には、深い秋雨の戸の外を通り過ぎ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・この感じは四辺を一面に覆うている白い雪と同じように、果もなく単調な無事を表しているだけである。 しかしこの群の人々に、この岩畳な老人が目に留まらなかったのではない。今朝から気は付いている。みんなが早足に町の敷石を蹈み締め蹈み締めして歩い・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ウイリイはそのとおりにして、犬と一しょに、無事に城の中へはいりました。 城の門も、中の方々の戸も、すっかり明け放してありました。 四 ウイリイは犬を外に待たせておいて、大きな部屋をいくつも通りぬけて、一ばん奥・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・ 夫はからだが弱いので、召集からも徴用からものがれ、無事に毎日、雑誌社に通勤していたのですが、戦争がはげしくなって、私たちの住んでいるこの郊外の町に、飛行機の製作工場などがあるおかげで、家のすぐ近くにもひんぴんと爆弾が降って来て、とうと・・・ 太宰治 「おさん」
・・・しかしまあ、万事無事に済みまして結構でございました。すぐに見付かればよろしいのでございますが、もうお落しになってから約八分たっていたそうで、すっかり水を含みまして、沈みかかっていたそうでございます。水上警察がそれを見付けて、すぐに非常号音を・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・事によると、昔のある時代に繁茂していた植物のコロニーが、ある年の大噴火で死滅し、その上に一メートルほどの降砂が堆積した後に、再び植物の移住定着が始まり、その後は無事で今日に到ったのではないかという気がする。 峰の茶屋には白黒だんだらの棒・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・息子が死んでも日本が克った方がいいか、日本が負けても、子息が無事でいた方が好いかなんてね。莫迦にしてやがると思って、私も忌々しいからムキになって怒るんだがね。」 悼ましい追憶に生きている爺さんの濁ったような目にはまだ興奮の色があった。・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫