・・・――僕は実際無常を感じてしまったね。あれでも君、元は志村の岡惚れだったんじゃないか。 志村の大将、その時分は大真面目で、青木堂へ行っちゃペパミントの小さな罎を買って来て、「甘いから飲んでごらん。」などと、やったものさ。酒も甘かったろうが・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・二の烏 恋も風、無常も風、情も露、生命も露、別るるも薄、招くも薄、泣くも虫、歌うも虫、跡は野原だ、勝手になれ。(怪しき声にて呪す。一と三の烏、同時に跪いて天を拝す。風一陣、灯はじめ、月なし、この時薄月出づ。舞台明くなりて、貴・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・というような気持を超した、ある意力のある無常感であった。彼は古代の希臘の風習を心のなかに思い出していた。死者を納れる石棺のおもてへ、淫らな戯れをしている人の姿や、牝羊と交合している牧羊神を彫りつけたりした希臘人の風習を。――そして思った。・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・諸行は無常、宇宙は変化の連続である。 その実体には、もとより、終始もなく、生滅もないはずである。されど、実体の両面たる物質と勢力とが構成し、仮現する千差万別・無量無限の形体にいたっては、常住なものはけっしてない。彼らすでに始めがある。か・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 二 万物は皆な流れ去るとヘラクリタスも言った、諸行は無常、宇宙は変化の連続である。 其実体には固より終始もなく生滅もなき筈である、左れど実体の両面たる物質と勢力とが構成し仮現する千差万別・無量無限の個々の形体に・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ 私は高等学校一年生の時に、早くもお洒落の無常を察して、以後は、やぶれかぶれで、あり合せのものを選択せずに身にまとい、普通の服装のつもりで歩いていたのであるが、何かと友人たちの批評の対象になり、それ故、臆して次第にまた、ひそかに服装にこ・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・ このような思想はまた一面において必然的に仏教の無常観と結合している。これは著者が晩年に僧侶になったためばかりでなく大体には古くからその時代に伝わったものをそのままに継承したに過ぎないであろう。とにかく全巻を通じて無常を説き遁世をすすめ・・・ 寺田寅彦 「徒然草の鑑賞」
・・・思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。鴨長明の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁でしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・たとえば仏教思想の表面的な姿にのみとらわれた凡庸の歌人は、花の散るのを見ては常套的の無常を感じて平凡なる歌を詠んだに過ぎないであろうが、それは決してさびしおりではない。芭蕉のさびしおりは、もっと深いところに進入しているのである。たとえば、黙・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・すなわち仏教伝来以後今日まで日本国民の間に浸潤した無常観が自然の勢いで俳句の中にも浸透したからである。しかし自分の見るところでは、これは偶然のことであって決して俳句の精神と本質的に連関しているものとは思われない。仏教的な無常観から解放された・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
出典:青空文庫