・・・「そのせいでございましょうか、昨夜も御実検下さらぬと聞き、女ながらも無念に存じますと、いつか正気を失いましたと見え、何やら口走ったように承わっております。もとよりわたくしの一存には覚えのないことばかりでございますが。……」 古千屋は・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・夫はどんなに無念だったでしょう。が、いくら身悶えをしても、体中にかかった縄目は、一層ひしひしと食い入るだけです。わたしは思わず夫の側へ、転ぶように走り寄りました。いえ、走り寄ろうとしたのです。しかし男は咄嗟の間に、わたしをそこへ蹴倒しました・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・今に工面してやるから可い、蚊の畜生覚えていろと、無念骨髄でしたよ。まだそれよりか、毒虫のぶんぶん矢を射るような烈い中に、疲れて、すやすや、……傍に私の居るのを嬉しそうに、快よさそうに眠られる時は、なお堪らなくって泣きました。」 聞く方が・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 病者は自ら胸を抱きて、眼を瞑ること良久しかりし、一際声の嗄びつつ、「こう謂えばな、親を蹴殺した罪人でも、一応は言訳をすることが出来るものをと、お前は無念に思うであろうが、法廷で論ずる罪は、囚徒が責任を負ってるのだ。 今お前が言・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・定めし私に云われたことが無念でたまらなかったからでしょう」 民子はここで私はそうでありませんと泣声でいうたけれど、母は耳にもかけずに、「なるほど私の小言も少し云い過ぎかも知れないが、民子だって何もそれほど口惜しがってくれなくてもよさ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・たださえ剛情に片意地な人であるに、この事ばかりは自分の言う所が理義明白いささかも無理がないと思うのに、これが少しも通らぬのだから、一筋に無念でならぬのだ。これほど明白に判り切った事をおとよが勝手我儘な私心一つで飽くまでも親の意に逆らうと思い・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・しかもかれには言うに言われぬ無念がまだ折り折り古い打傷のようにかれの髄を悩ますかと思うとたまらなくなってくる。かれの友のある者は参議になった、ある者は神に祭られた。今の時代の人々は彼らを謳歌している。そしてかれは今の時代の精神に触れないばか・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・今は斯様よとそれにて御自害あり、近臣一同も死出の御供、城は火をかけて、灰今冷やかなる、其の残った臣下の我等一党、其儘に草に隠れ茂みに伏して、何で此世に生命生きようや。無念骨髄に徹して歯を咬み拳を握る幾月日、互に義に集まる鉄石の心、固く結びて・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ しばらく彼も我も無念になって竿先を見守ったが、魚の中りはちょっと途断えた。 ふと少年の方を見ると、少年はまじまじと予の方を見ていた。何か言いたいような風であったが、談話の緒を得ないというのらしい、ただ温和な親しみ寄りたいというが如・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・ああ、いまわしい、口に出すさえ無念至極のことであります。あの人は、こんな貧しい百姓女に恋、では無いが、まさか、そんな事は絶対に無いのですが、でも、危い、それに似たあやしい感情を抱いたのではないか? あの人ともあろうものが。あんな無智な百姓女・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
出典:青空文庫