・・・彼は、ゴルゴタへひかれて行くクリストが、彼の家の戸口に立止って、暫く息を入れようとした時、無情にも罵詈を浴せかけた上で、散々打擲を加えさえした。その時負うたのが、「行けと云うなら、行かぬでもないが、その代り、その方はわしの帰るまで、待って居・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・ 手の裏かえす無情さは、足も手もぐたりとした、烈日に裂けかかる氷のような練絹の、紫玉のふくよかな胸を、酒焼の胸に引掴み、毛脛に挟んで、「立たねえかい。」 十三「口惜しい!」 紫玉は舷に縋って身を震わす・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ そんな事は出来ない。いったいあんな所へ牛を置いちゃいかんじゃないか。 それですからこれから牽くのですが。 それですからって、あんな所へ牛を置いて届けても来ないのは不都合じゃないか。 無情冷酷……しかも横柄な駅員の態度である・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・線香を立てて死人扱いをするのがかあいそうでならないけれど、線香を立てないのも無情のように思われて、線香は立てた。それでも燈明を上げたらという親戚の助言は聞かなかった。まだこの世の人でないとはどうしても思われないから、燈明を上げるだけは今夜の・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・互に手を取って後来を語ることも出来ず、小雨のしょぼしょぼ降る渡場に、泣きの涙も人目を憚り、一言の詞もかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。無情の舟は流を下って早く、十分間と経たぬ内に、五町と下らぬ内に、お互の姿は雨の曇りに隔てられ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・元来父はおとよを愛していたのだから、今でもおとよをかわいそうと思わないことはないけれど、ちょっと片意地に陥るとわが子も何もなくなる、それで通常は決して無情酷薄な父ではないのである。 おとよはだれの目にも判るほどやつれて、この幾日というも・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・すべけん 夜々精光斗牛を射る 雛衣満袖啼痕血痕に和す 冥途敢て忘れん阿郎の恩を 宝刀を掣将つて非命を嗟す 霊珠を弾了して宿冤を報ず 幾幅の羅裙都て蝶に化す 一牀繍被籠鴛を尚ふ 庚申山下無情の土 佳人未死の魂を埋却す ・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・えば、屠殺場へ引かれて行く、歩みの遅々として進まない牛を見た時、或は多年酷使に堪え、もはや老齢役に立たなくなった、脾骨の見えるような馬を屠殺するために、連れて行くのを往来などで遊んでいて見た時、飼主の無情より捨てられて、宿無しとなった毛の汚・・・ 小川未明 「天を怖れよ」
・・・晩からは、遂に座敷を変えて寝たが、その後は別に何のこともなかった、何でもその後近所の噂に聞くと、前に住んでいたのが、陸軍の主計官とかで、その人が細君を妾の為めに、非常に虐待したものから、細君は常に夫の無情を恨んで、口惜い口惜いといって遂に死・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・町の者母の無情を憎み残されし子をいや増してあわれがりぬ。かくて母の計あたりしとみえし。あらず、村々には寺あれど人々の慈悲には限あり。不憫なりとは語りあえど、まじめに引取りて末永く育てんというものなく、時には庭先の掃除など命じ人らしく扱うもの・・・ 国木田独歩 「源おじ」
出典:青空文庫