・・・ひょっとすると生涯こうして考えているばかりで暮らすのかもしれないんですが、とにかく嘘をしなければ生きて行けないような世の中が無我無性にいやなんです。ちょっと待ってください。も少し言わせてください。……嘘をするのは世の中ばかりじゃもちろんあり・・・ 有島武郎 「親子」
・・・花の間に顔を伏せて彼女は少女の歌声に揺られながら、無我の祈祷に浸り切った。 ○「クララ……クララ」 クララは眼をさましていたけれども返事をしなかった。幸に母のいる方には後ろ向けに、アグネスに寄り添って臥ていた・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・それは二人の勝負師が無我の境地のままに血みどろになっている瞬間であった。 坂田の耳に火のついたような赤ん坊の泣き声がどこからか聴えて来る瞬間であった。 そして坂田はその声を聴きながら、再び負けてしまったのである。・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・ からだにも心にも、ぽかんとしたような絶望的無我が霧のように重く、あらゆる光をさえぎって立ちこめている。 すき腹に飲んだので、まもなく酔いがまわり、やや元気づいて来た。顔を上げて我れ知らずにやりと笑った時は、四角の顔がすぐ、「そ・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・ 一分間で言える、僕と或少女と乙な中になった、二人は無我夢中で面白い月日を送った、三月目に女が欠伸一つした、二人は分れた、これだけサ。要するに誰の恋でもこれが大切だよ、女という動物は三月たつと十人が十人、飽きて了う、夫婦なら仕方がないから結・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・太郎の仙術の奥義は、懐手して柱か塀によりかかりぼんやり立ったままで、面白くない、面白くない、面白くない、面白くない、面白くないという呪文を何十ぺん何百ぺんとなくくりかえしくりかえし低音でとなえ、ついに無我の境地にはいりこむことにあったという・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ 私は無我無心でぼんやりしていた。ただ身体中の毛穴から暖かい日光を吸い込んで、それがこのしなびた肉体の中に滲み込んで行くような心持をかすかに自覚しているだけであった。 ふと気がついて見ると私のすぐ眼の前の縁側の端に一枚の浅草紙が落ち・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・意識的には無我の真情からそうするにしても結果においては先生にとって嬉しくないかもしれない。 場合によってはかえって先生の味方でなかったあるいは敵であった人々の方面からも隠れた伝記資料を求める事も必要ではないかと思うのである。敵の証言が味・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・しかしそのような場合にでも、その仕事の中に自分の天与の嗜好に逢着して、いつのまにかそれが仕事であるという事を忘れ、無我の境に入りうる機会も少なくないようである。いわんや衣食に窮せず、仕事に追われぬ芸術家と科学者が、それぞれの製作と研究とに没・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・と式の野営生活もたしかに愉快でもありまたいろいろな意味で有益ではあろうが、しかし、前者の体験する三昧の境地はおそらく王侯といえども味わう機会の少ないものであって、ただ人類の知恵のために重い責任を負うて無我な真剣な努力に精進する人間にのみ恵ま・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
出典:青空文庫