・・・ 役人は勿論見物すら、この数分の間くらいひっそりとなったためしはない。無数の眼はじっと瞬きもせず、三人の顔に注がれている。が、これは傷しさの余り、誰も息を呑んだのではない。見物はたいてい火のかかるのを、今か今かと待っていたのである。役人・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・と同時にまっ白な、光沢のある無数の糸が、半ばその素枯れた莟をからんで、だんだん枝の先へまつわり出した。 しばらくの後、そこには絹を張ったような円錐形の嚢が一つ、眩いほどもう白々と、真夏の日の光を照り返していた。 蜘蛛は巣が出来上ると・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・ぎらぎらと瞬く無数の星は空の地を殊更ら寒く暗いものにしていた。仁右衛門を案内した男は笠井という小作人で、天理教の世話人もしているのだといって聞かせたりした。 七町も八町も歩いたと思うのに赤坊はまだ泣きやまなかった。縊り殺されそうな泣き声・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・我邦において、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁は何を語るか。 か・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・「常説法教化無数億衆生爾来無量劫。」 法の声は、蘆を渡り、柳に音ずれ、蟋蟀の鳴き細る人の枕に近づくのである。 本所ならば七不思議の一ツに数えよう、月夜の題目船、一人船頭。界隈の人々はそもいかんの感を起す。苫家、伏家に灯の影も漏れ・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・椿岳は一つの画を作るためには何枚も何枚も下画を描いたので、死後の筐底に残った無数の下画や粉本を見ても平素の細心の尋常でなかったのが解る。椿岳の画は大抵一気呵成であるが、椿岳の一気呵成には人の知らない多大の準備があったのだ。 椿岳が第一回・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そして、夏の日が海のかなたに傾いて無数のうろこ雲が美しく花弁のように空に散りかかったときに、身を投げて死んだものもありました。 こうして、死んだ人々に対しては、だれも悲しいというような感じを抱きませんでした。このままこの国に朽ちてしまっ・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・将棋の盤面は八十一の桝という限界を持っているが、しかし、一歩の動かし方の違いは無数の変化を伴なって、その変化の可能性は、例えば一つの偶然が一人の人間の人生を変えてしまう可能性のように、無限大である。古来、無数の対局が行われたが、一つとして同・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・その臭の主も全くもう溶けて了って、ポタリポタリと落来る無数の蛆は其処らあたりにうようよぞろぞろ。是に食尽されて其主が全く骨と服ばかりに成れば、其次は此方の番。おれも同じく此姿になるのだ。 その日は暮れる、夜が明ける、何も変った事がなくて・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 合うとか離れるとかいうことは実は不思議なことである。無数の人々の中で何故ある人々と人々とのみが相合うか。そしてせっかく相合い、心を傾けて愛し合いながら終わりを全うすることができないで別れねばならなくなるのか。仏教では他生の縁というよう・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
出典:青空文庫