・・・生島はその年の春ある大学を出てまだ就職する口がなく、国へは奔走中と言ってその日その日をまったく無気力な倦怠で送っている人間であった。彼はもう縦のものを横にするにも、魅入られたような意志のなさを感じていた。彼が何々をしようと思うことは脳細胞の・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・紅殻が古びてい、荒壁の塀は崩れ、人びとはそのなかで古手拭のように無気力な生活をしているように思われた。喬の部屋はそんな通りの、卓子で言うなら主人役の位置に窓を開いていた。 時どき柱時計の振子の音が戸の隙間から洩れてきこえて来た。遠くの樹・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・美しいもの――と言って無気力な私の触角にむしろ媚びて来るもの。――そう言ったものが自然私を慰めるのだ。 生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・ 兵士達は、偽札を撒きちらされても、強者には何一ツ抗議さえよくしない日本当局の無気力を憤った。メリケン兵は忌々しく憎かった。彼等は、ひまをぬすんで寝がえりを打った娘のところへのこ/\やって行って偽札を曝露した。「何故?」 肌自慢・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・この言葉には、やはり無気力な、敗者の溜息がひそんでいるように、私には思われてならない。 弱者への慰めのテエマが、まだ当分は、映画の底に、くすぶるのではあるまいか。 太宰治 「弱者の糧」
・・・坐っていると、なんだか頼りない、無気力なことばかり考える。私と向かい合っている席には、四、五人、同じ年齢恰好のサラリイマンが、ぼんやり坐っている。三十ぐらいであろうか。みんな、いやだ。眼が、どろんと濁っている。覇気が無い。けれども、私がいま・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・それが皆の為に善いならば、そうしましょう、という無気力きわまる態度であった。ぼんやり、Hと二人で、雌雄の穴居の一日一日を迎え送っているのである。Hは快活であった。一日に二、三度は私を口汚く呶鳴るのだが、あとはけろりとして英語の勉強をはじめる・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・眼をさまし、笠井さんは、ゆうべの自身の不甲斐なさ、無気力を、死ぬほど恥ずかしく思ったのである。たいへんな、これは、ロマンチシズムだ。げろまで吐いちゃった。憤怒をさえ覚えて、寝床を蹴って起き、浴場へ行って、広い浴槽を思いきり乱暴に泳ぎまわり、・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・または、大きな声では云えないが、頭はただきれいに分けた髪の毛の台に過ぎないので、ああやって無気力な薄笑いを反射させただけなのか…… 学生からまとまった数言をききたがっていた農夫も、やがて同じような謎に捕われたと見え、口を利くのをやめた。・・・ 宮本百合子 「北へ行く」
・・・建国祭が近づくが、日本の専制的な支配権力が大衆を無知と無気力におくためにはどういうものを読ませようとしているか。それは『キング』一冊とって見て明かである。われわれは根気よく至るところでそれと闘い、プロレタリアの文化を建設して行かねばならぬ。・・・ 宮本百合子 「『キング』で得をするのは誰か」
出典:青空文庫