・・・そのことが、頭にあるとみえて、いま大きな犬に追いかけられた夢を見てしくしくと泣いていました。無邪気なほおの上に涙が流れて、うす暗い燈火の光が、それを照らしています。」と、やさしい星は答えました。 すると、いままで黙っていた、遠方にあった・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
・・・どいつもこいつも無邪気さを装って観衆の拍手を必要としているのだ。けれども、そう思う豹一にももともとそれが必要だったのだ。記念祭の夜応援団の者に撲られたことを機縁として、五月二日、五月三日、五月四日と記念祭あけの三日間、同じ円山公園の桜の木の・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ おしげはともかく、六蔵のほうは子供だけに無邪気なところがありますから、私は一倍哀れに感じ、人の力でできることならば、どうにかして少しでもその知能の働きを増してやりたいと思うようになりました。 すると田口の主人と話してから二週間もた・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・ 内地で、兵卒同志で、殴りあいをしたり寝台の下の早馳けなどは、あとから思い出すとむしろ無邪気で、ほゝえましくなる。だが、本当に誰れかの手先に使われて、寒い冬を過したシベリアのことは、いまだに憤りを覚えずにはいられない。 若し、も一度・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・桑の葉越に紅いや青い色をちらつかせながら余念も無しに葉を摘むと見えて、しばしは静であったが、また前の二人とは違った声で、桑は摘みたし梢は高し、と唄い出したが、この声は前のように無邪気に美しいのでは無かった。そうすると・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 無邪気な三郎の顔をながめていると、私はそう思った。どれほどの冷たい風が毎日この子の通う研究所あたりまでも吹き回している事かと。私はまた、そう思った。あの米騒動以来、だれしもの心を揺り動かさずには置かないような時代の焦躁が、右も左もまだ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・しかしてヒヤシンスのように青いこの子の目で見やられると、母の美しい顔は、子どもと同じな心置きのない無邪気さに返って、まるで太陽の下に置かれた幼児のように見えました。「ここで私は天国の事などは歌うまい。しかしできるなら何かこの二人の役にた・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・兄は、いつでも、無邪気に人を、かつぎます。まったく油断が、できないのです。ミステフィカシオンが、フランスのプレッシュウたちの、お道楽の一つであったそうですから、兄にも、やっぱり、この神秘捏造の悪癖が、争われなかったのであろうと思います。・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・うぶで、無邪気で、何事に逢っても挫折しない元気を持っている。物に拘泥しない、思索ということをしない、純血な人間に出来るだけの受用をする。いつも何か事あれかしと、居合腰をしているのである。 それだから金のいること夥だしい。定額では所詮足ら・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・しかしこの人の剽軽で学者らしく無邪気な、そしてどこか親切な態度に馴れた私はその時でも少しも悪い心持は起らなかった。そして遠い世界の果ての生れ故郷をなつかしがる人の心持も決して悪くは思えなかった。 それにしても主婦の容貌があまり日本人によ・・・ 寺田寅彦 「異郷」
出典:青空文庫