・・・ 私は軽い焦燥を感じたが、同時に雪江に対する憐愍を感じないわけにはいかなかった。「雪江さんも可哀そうだと思うね。どうかまあよくしてやってもらわなければ。もちろん財産もないので、これからはあなたも骨がおれるかもしれないけれど」私は言っ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝な日を送っ・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・私はだんだん不安になり、犬のように焦燥しながら、道を嗅ぎ出そうとして歩き廻った。そして最後に、漸く人馬の足跡のはっきりついた、一つの細い山道を発見した。私はその足跡に注意しながら、次第に麓の方へ下って行った。どっちの麓に降りようとも、人家の・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・則ち生殖に対する焦燥や何かの為に費される勢力を保存するようにします。さあ、家畜は肥りますよ、全く動物は一つの器械でその脚を疾くするには走らせる、肥らせるには食べさせる、卵をとるにはつるませる、乳汁をとるには子を近くに置いて子に呑ませないよう・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・床を出て自由に歩き廻る訳には行かないが、さりとて臥きりに寝台に縛られていると何か落付かない焦燥が、衰弱しない脊髄の辺からじりじりと滲み出して来るような状態にあった。 手伝の婆に此と云う落度があったのではなかった。只、ふだんから彼女の声は・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・をやらなければならないという焦燥があるということがわかりました。そのために、いろいろの婦人間の動きもするということがわかりました。 これは、話している間に私の感じたことですが。――御参考までに○ 婦人民主クラブ役員改選のこと・・・ 宮本百合子 「往復帖」
・・・留置場の時計が永い午後を這うように動いているのなどを眺めていると、焦燥に似た感じが不意に全身をとらえた。これは全然新しい経験なのであった。自分はこのような焦燥を感じさせるところにも、計画的な敵のかけひきを理解した。 六月二十日、自分は一・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・そして誤解を解くための焦燥などは絶対にしてはいけない。たやすく群集に理解されることは危険である。群集の喝采は必ずしも作者の勝利を示しはしない。虚偽と阿諛に充ちた作品をさえ喜ぶ人々の喝采は、恐らく不愉快なものだろうと思う。 万人の胸を潤す・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・自分の性質と要求との間の焦燥。自己を真実に活かすための種々の葛藤。自己の価値と運命とについての信念、情熱、不安。個性の最上位を信じながら社会的勢力との妥協を全然捨離し得ない苦悶。愛の心と個性を重んずる心との争い。個性と愛とを大きくするための・・・ 和辻哲郎 「「ゼエレン・キェルケゴオル」序」
・・・そうして私は彼らの内に勇ましい生活の戦士を見、生の意義を追い求める青年の焦燥をともにし得ると思った。彼らの雰囲気が青春に充ち、極度に自由であることをも感じた。彼らの粗暴な無道徳な行為も、因襲の圧迫を恐れない真実の生の冒険心――大胆に生の渦巻・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫