・・・その又紙の中には煎餅位大きい、チョコレェトの色に干からびた、妙なものが一枚包んであった。「何だ、それは?」「これか? これは唯のビスケットだがね。………そら、さっき黄六一と云う土匪の頭目の話をしたろう? あの黄の首の血をしみこませて・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 妻は慳貪にこういって、懐から塩煎餅を三枚出して、ぽりぽりと噛みくだいては赤坊の口にあてがった。「俺らがにも越せ」 いきなり仁右衛門が猿臂を延ばして残りを奪い取ろうとした。二人は黙ったままで本気に争った。食べるものといっては三枚・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・参詣が果てると雑煮を祝って、すぐにお正月が来るのであったが、これはいつまでも大晦日で、餅どころか、袂に、煎餅も、榧の実もない。 一寺に北辰妙見宮のまします堂は、森々とした樹立の中を、深く石段を上る高い処にある。「ぼろきてほうこう。ぼ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・何ぞの用で、小僧も使いに遣られて、煎餅も貰えば、小母さんの易をトる七星を刺繍した黒い幕を張った部屋も知っている、その往戻りから、フトこのかくれた小路をも覚えたのであった。 この魔のような小母さんが、出口に控えているから、怪い可恐いものが・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・―― 磯浜へ上って来て、巌の根松の日蔭に集り、ビイル、煎餅の飲食するのは、羨しくも何ともないでしゅ。娘の白い頤の少しばかり動くのを、甘味そうに、屏風巌に附着いて見ているうちに、運転手の奴が、その巌の端へ来て立って、沖を眺めて、腰に手をつ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・――徒らに鼻が隆く目の窪んだ処から、まだ娑婆気のある頃は、暖簾にも看板にもとかいて、煎餅を焼いて売りもした。「目あり煎餅」勝負事をするものの禁厭になると、一時弘まったものである。――その目をしょぼしょぼさして、長い顔をその炬燵に据えて、いと・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 中二階といってもただ段の数二ツ、一段低い処にお幾という婆さんが、塩煎餅の壺と、駄菓子の箱と熟柿の笊を横に控え、角火鉢の大いのに、真鍮の薬罐から湯気を立たせたのを前に置き、煤けた棚の上に古ぼけた麦酒の瓶、心太の皿などを乱雑に並べたのを背・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・おつかいものは、ただ煎餅の袋だけれども、雀のために、うちの小母さんが折入って頼んだ。 親たちが笑って、「お宅の雀を狙えば、銃を没収すると言う約条ずみです。」 かつて、北越、倶利伽羅を汽車で通った時、峠の駅の屋根に、車のとどろくに・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ この使のついでに、明神の石坂、開化楼裏の、あの切立の段を下りた宮本町の横小路に、相馬煎餅――塩煎餅の、焼方の、醤油の斑に、何となく轡の形の浮出して見える名物がある。――茶受にしよう、是非お千さんにも食べさしたいと、甘谷の発議。で、宗吉・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・「はい、お煎餅、少しですよ。……お二人でね……」 お駄賃に、懐紙に包んだのを白銅製のものかと思うと、銀の小粒で……宿の勘定前だから、怪しからず気前が好い。 女の子は、半分気味の悪そうに狐に魅まれでもしたように掌に受けると――二人・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
出典:青空文庫