・・・鮨や麺麭や菓子や煎餅が間断なしに持込まれて、代る/″\に箱が開いたかと思うと咄嗟に空になった了った。 誰一人沈としているものは無い。腰を掛けたかと思うと立つ。甲に話しているかと思うと何時の間にか乙と談じている。一つ咄が多勢に取繰返し引繰・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・ こういうものの並んでいる間に散点してまた実に昔のままの日本を代表する塩煎餅屋や袋物屋や芸者屋の立派に生存しているのもやはり印画記録の価値が充分にある。 六国史などを読んで、奈良朝の昔にシナ文化の洪水が当時の都人士の生活を浸したころ・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
・・・塩煎餅屋の取散らされた店先に烈日の光がさしていたのが心を引いた。団子坂を上って千駄木へ来るともう倒れかかった家などは一軒もなくて、所々ただ瓦の一部分剥がれた家があるだけであった。曙町へはいると、ちょっと見たところではほとんど何事も起らなかっ・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・ 商店の中で、シャツ、ヱプロンを吊した雑貨店、煎餅屋、おもちゃ屋、下駄屋。その中でも殊に灯のあかるいせいでもあるか、薬屋の店が幾軒もあるように思われた。 忽ち電車線路の踏切があって、それを越すと、車掌が、「劇場前」と呼ぶので、わたく・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・名物の煎餅屋の娘はどうしたか知ら。一時跡方もなく消失せてしまった二十歳時分の記憶を呼び返そうと、自分はきょろきょろしながら歩く。 無論それらしい娘も女房も今は見当てられようはずはない。しかし深川の大通りは相変らず日あたりが悪く、妙にこの・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・赤は暫く経って呼吸せわしく太十を求めて駈けて来る。こういう悪戯を二度も三度も繰り返して居る太十の姿を時として見ることがある。赤は煎餅が好きであった。赤に煎餅を食わせて居る太十の姿がよく村の駄菓子店に見えた。焼けの透らぬ堅い煎餅は犬には一度に・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・失望は仕ましたものの、前に幾度もお煎餅を食べたりした所だと云う事は少なからず弟の気を引き立てて却って静かな人の居ないのが嬉しいと云う様な気を起させました。 私は自分の居る所の番地も知らずに居る罪のない後生願いの婆さんの事を可愛らしく思い・・・ 宮本百合子 「小さい子供」
出典:青空文庫