・・・我と底抜けの生活から意味もなく翻弄されて、悲観煩悶なぞと言っている自分の憫れな姿も、省られた。 閉店同様のありさまで、惣治は青く窶れきった顔をしていた。そしてさっそくその品物を見せるため二階へ案内した。 周文、崋山、蕭伯、直入、木庵・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・唱歌を聞きながら、居眠ってばかりいない、秋の夕空晴れて星の光も鮮やかなる時、お花に伴われてかの小川の辺など散歩し、お花が声低く節哀れに唱うを聞けばその沈みはてし心かすかに躍りて、その昔、失敗しながらも煩悶しながらもある仕事を企ててそれに力を・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ それでこのごろは彼も煩悶の時を脱して決心の境に入り着々その方に向かって進んで来たが未だ故郷の父母にはこの決心を秘しているのである。彼がややもすると不安の色を顔に示すはこの故である。『ナニ画のためになら倒れてやむだけの覚悟はもう決め・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・そうして、他のひとを愛しはじめると、妻の前で憂鬱な溜息などついて見せて、道徳の煩悶 夫は、力無い声で笑い、「変るもんか。変りやしないさ。ただもうこの頃は暑いんだ。暑くてかなわない。夏は、どうも、エキスキュウズ、ミイだ。」 とりつ・・・ 太宰治 「おさん」
・・・この手紙は牧師の二度と来ぬように、謂わば牧師を避けるために書く積りで書き始めたものらしい。煩悶して、こんな手紙を書き掛けた女の心を、その文句が幽かに照しているのである。「先日お出でになった時、大層御尊信なすってお出での様子で、お話になっ・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・焦燥と煩悶、それに病気もしていて、幾度か書きかけては、床についた。 しかし、八月いっぱいには、約その三分の二を書き上げることができた。で、原稿を関君に渡して、ほっと呼吸をついた。 それから後は、なかば校正の筆を動かしつつ書いた。関君・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・行かない一人子の初旅であったせいもあろうが、また一つには、わが家があまりに近くてどうでも帰ろうと思えばいつでも帰られるという可能性があるのに、そうかと云って予定の期日以前に帰るのはきまりが悪いという「煩悶」があったためらしい。その頃高知から・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・しかし彼らの死を思うたびに真摯な学者の煩悶という事を考えない事はない。 学説を学ぶものにとってもそれの完全の程度を批判し不完全な点を認識するは、その学説を理解するためにまさに努むべき必要条件の一つである。 しかしここに誤解してならな・・・ 寺田寅彦 「相対性原理側面観」
・・・それらの景色をばいい知れず美しく悲しく感じて、満腔の詩情を托したその頃の自分は若いものであった。煩悶を知らなかった。江戸趣味の恍惚のみに満足して、心は実に平和であった。硯友社の芸術を立派なもの、新しいものだと思っていた。近松や西鶴が残した文・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・恋を描くにローマン主義の場合では途中で、単に顔を合せたばかりで直ぐに恋情が成立ち、このために盲目になったり、跛足になったりして、煩悶懊悩するというようなことになる。しかしこんな事実は、実際あり得ない事である。其処が感激派の小説で、或情緒を誇・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
出典:青空文庫