・・・のみならず、その声がどこから、どういうふうに聞こえなければならぬかを熟知し期待している。それが、ちがった見当から、ちがったふうに聞こえてくると、結果は当然幻滅であり矛盾である。これは自然なものと不自然なものとの衝突から生じる破綻である。要す・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・方則を疑う前には先ずこれを熟知し適用の限界を窮めなければならぬ。その上で疑う事は止むを得ない。疑って活路を求めるには想像の翼を鼓するの外はないのであろう。 現在の科学の基礎方則を疑うのは危険であっても、社会主義が国家主義に危険であったり・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・しかも講談筆記の題材たるや既に老人の熟知するところ。其の陳腐にして興味なきことも亦よく予想せられるところであるが、これ却って未知の新しきものよりも老人の身には心易く心丈夫に思われ、覚えず知らず行を逐って読過せしめる所以ともなるのであろう。こ・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・しかも、鴎外の実生活の閲歴は、人間の主観が客観の世間では誤って評価される場合もある悲劇を熟知しており、むごく扱われる結果のあるのも熟知している。作者の主観に足場をおいて達観すれば、やがて、そのような主観と客観との噛み合いを作家としての歴史の・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・ 自分に生活の、愛の確信があり、自分と彼女との性格的差異を熟知して居るばかりで、私は辛うじて今の心持を支えて居る。 支えて居なければならない必要が、果してあるのだろうか。 ○ 高い、堅い二つの絶壁の間・・・ 宮本百合子 「傾く日」
・・・した両性の愛は、何も、ちょくちょく顔を見なければおられない筈のものでも無く、自分の愛情の表現に対して、必ず、同様な方法によって応答して貰わなければ寂寥に堪えないというようなものであるべきでないことは、熟知しているのです。これ等は明に第二次的・・・ 宮本百合子 「偶感一語」
・・・ 彼女は――自分は――その忘我が、感情に於てふんだんの女性である自分にとって、不可抗なものである事を熟知して居る。 其が故に、彼女はその忘我の裡に恍惚とした我をも、何の恐れなしに委せ得る人を、見出さなければならない。彼女の良人は、彼・・・ 宮本百合子 「結婚問題に就て考慮する迄」
・・・然し、鳥の本性は籠の中より野天の甘美なことを熟知しているに違いない。縁側の手前よりこっちには、決して、決して来ない。チチ、チュ。……思いかえしたように、また元の菊の葉かげ、一輪咲き出した白沈丁花の枝にとまって、首を傾け、黒い瞳で青空を瞰る。・・・ 宮本百合子 「春」
・・・正長、永享の土一揆は彼の三十歳近いころの出来事であり、嘉吉の土一揆、民衆の強要による一国平均の沙汰は、彼の三十九歳の時のことで、民衆の運動は彼の熟知していたところであるが、彼にとってはそれはただ悲しむべき秩序の破壊にすぎなかったであろう。今・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫