・・・僕は熱帯植物の中からしっきりなしに吹きつけて来るジャッズにはかなり興味を感じた。しかし勿論幸福らしい老人などには興味を感じなかった。「あの爺さんは猶太人だがね。上海にかれこれ三十年住んでいる。あんな奴は一体どう云う量見なんだろう?」・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・彼は帰りたさをこらえたまま、標本室の中を歩きまわった。熱帯の森林を失った蜥蜴や蛇の標本は妙にはかなさを漂わせている。これはあるいは象徴かも知れない。いつか情熱を失った彼の恋愛の象徴かも知れない。彼は三重子に忠実だった。が、三重子は半年の間に・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・ その間も寂しい鬼が島の磯には、美しい熱帯の月明りを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子の実に爆弾を仕こんでいた。優しい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗ほどの目の玉を赫かせながら。・・・ 芥川竜之介 「桃太郎」
・・・あの変化、あの心の中にうず/\と捲き起る生の喜び、それは恐らく熱帯地方に住む人などの夢にも想い見ることの出来ない境だろう。それから水々しく青葉に埋もれてゆく夏、東京あたりと変らない昼間の暑さ、眼を細めたい程涼しく暮れて行く夜、晴れ日の長い華・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
・・・卿は熱帯の鬱林に放たれずして、山地の碧潭に謫されたのである。……トこの奇異なる珍客を迎うるか、不可思議の獲ものに競うか、静なる池の面に、眠れる魚のごとく縦横に横わった、樹の枝々の影は、尾鰭を跳ねて、幾千ともなく、一時に皆揺動いた。 これ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・四六時中に熱帯の暑気と初冬の霜を見ることでありますれば、植生は堪ったものでありません。その時にあたってユトランドの農夫が収穫成功の希望をもって種ゆるを得し植物は馬鈴薯、黒麦、その他少数のものに過ぎませんでした。しかし植林成功後のかの地の農業・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・まず一匹の驢馬が出現する。熱帯の白日に照らされた道路のはるか向こうから兵隊のラッパと太鼓が聞こえて来る。アラビア人の馬方が道のまん中に突っ立った驢馬をひき寄せようとするがなかなかいこじに言うことを聞かない。馬方はとうとう自分ですべって引っく・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 八 ベンガルの槍騎兵 変わった熱帯の背景とおおぜいの騎兵を使った大がかりな映画である。物語の筋はむしろ簡単であるが、途中に插入されたいろいろのエピソードで「映画的内容」がかなり豊富にされているのに気がつく。たとえば・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・ 三 熱帯魚 百貨店の花卉部に熱帯魚を養ったガラス張りの水槽が並んでいる。暑いある日のことである。どう見ても金持ちらしい五十格好のあぶらぎった顔をした一人の顧客が、若い店員を相手にして何か話している。水槽につけた紙札・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・夜九時にバベルマンデブの海峡を過ぎた。熱帯とも思われぬような涼しい風が吹いて船室の中も涼しかった。四月二十五日 十二使徒という名の島を右舷に見た。それを通り越すと香炉のふたのような形の島が見えたが名はわからなかった。 一等客でコ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
出典:青空文庫