・・・とに暮れて行くイタリアの水の都――バルコンにさく薔薇も百合も、水底に沈んだような月の光に青ざめて、黒い柩に似たゴンドラが、その中を橋から橋へ、夢のように漕いでゆく、ヴェネチアの風物に、あふるるばかりの熱情を注いだダンヌンチョの心もちを、いま・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・あるいは己の愛している女に、それほどまでに媚びようとするあの男の熱情が、愛人たる己にある種の満足を与えてくれるからかも知れない。 しかしそう云えるほど、己は袈裟を愛しているだろうか。己と袈裟との間の恋愛は、今と昔との二つの時期に別れてい・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・が、あらゆる熱情は理性の存在を忘れ易い。「偶然」は云わば神意である。すると我我の自己欺瞞は世界の歴史を左右すべき、最も永久な力かも知れない。 つまり二千余年の歴史は眇たる一クレオパトラの鼻の如何に依ったのではない。寧ろ地上に遍満した我我・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・私の心の中では聖書と性慾とが激しい争闘をしました。芸術的の衝動は性欲に加担し、道義的の衝動は聖書に加担しました。私の熱情はその間を如何う調和すべきかを知りませんでした。而して悩みました。その頃の聖書は如何に強烈な権威を以て私を感動させました・・・ 有島武郎 「『聖書』の権威」
・・・それは山といわず野といわず北国の天地を悲壮な熱情の舞台にする。 或る冴えた晩秋の朝であった。霜の上には薄い牛乳のような色の靄が青白く澱んでいた。私は早起きして表戸の野に新聞紙を拾いに出ると、東にあった二個の太陽を見出した。私は顔も洗わず・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
・・・そして外面的にはずいぶん冷淡に見える場合がないではなかったが、内部には恐ろしい熱情をもった男であった。この点は純粋の九州人に独得な所である。一時にある事に自分の注意を集中した場合に、ほとんど寝食を忘れてしまう。国事にでもあるいは自分の仕事に・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・……どっちだかそれは解らんが、とにかく相互の熱情熱愛に人畜の差別を撥無して、渾然として一如となる、」とあるはこの瞬間の心持をいったもんだ。 この犬が或る日、二葉亭が出勤した留守中、お客が来て格子を排けた途端に飛出し、何処へか逃げてしまっ・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 行動は、即ち良心なりと信ずるかぎり、この種の自己犠牲精神を他にして、人生の熱情も、感激も見られないのである。 レーニンの弁証法に、ブハーリンの史的唯物論に、もとより真理のある事を否まない。且つ、科学的基礎のあることをば信ずる。たゞこれ・・・ 小川未明 「純情主義を想う」
・・・ 真実というものが、いかに相手を真面目にさせるか、熱情というものが、いかに相手の心を打つか、こうした時に分るものです、それであるから、語る人の態度は、自から聴く人の態度を、改めることになるのであります。「面白い話や、おかしい話や、ま・・・ 小川未明 「童話を書く時の心」
・・・ 修飾や誇張は、その人の思想感情が真に潤沢になり豊富になり、熱情を帯びるに至った際に初めて借りるべき一手法である。何等内部的の努力なしに、文章上の彫琢をことゝするのは悪戯であるといってよい。 そこで、余はそういう人々に向って、次のよ・・・ 小川未明 「文章を作る人々の根本用意」
出典:青空文庫