・・・それから麦酒樽の天水桶の上に乾し忘れたままの爪革だった。それから、往来の水たまりだった。それから、――あとは何だったにせよ、どこにも犬の影は見なかった。その代りに十二三の乞食が一人、二階の窓を見上げながら、寒そうに立っている姿が見えた。・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・その時、龍介はフト上りはなに新しい爪皮のかかった男の足駄がキチンと置かれていたのを見た。瞬間龍介はハッとした。とんでもないものを見たような気がした。そこから帰りながら変に物足らない気持を感じた。そして何かしら淋しかった。 しばらくして龍・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
雨傘をさし、爪革のかかった下駄をはいて、小さい本の包みをかかえながら、私は濡れた鋪道を歩いていた。夕方七時すぎごろで、その日は朝からの雨であった。私は、その夜手許におかなければならない本があったし、かたがたうちにいるのがい・・・ 宮本百合子 「映画」
・・・ 御昼飯を仕舞うとすぐ千世子は銘仙の着物に爪皮の掛った下駄を履いてせかせかした気持で新橋へ行った。 西洋洗濯から来て初めての足袋が「ほこり」でいつとはなしに茶色っぽくなるのを気にしながら石段を上るとすぐわきに、時間表を仰向いて見て居・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・ ころばない要心にどんな大雨でもそれより外履いた事のない私の足駄――それは低い日和下駄に爪皮のかかったものである――では、泥にもぐったり、はねがじきに上ったりして大層な難儀をしなければならなかった。 小一時間も掛って漸う赤門の傍まで・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・雨の用意の洋傘を中歯の爪皮の上について待っていると、間もなく反対の方向から一台バスがやって来た。背広で、ネクタイをつけ、カンカン帽をかぶった四十男が運転台にいる。見馴れぬ妙な眺めだ。 坂の下り口にかかると、非常に速力をゆるめ、いかにも、・・・ 宮本百合子 「電車の見えない電車通り」
・・・つまさきをすっかり雪の中へ落して、爪皮一枚を透して雪の骨にしみる様な冷たさを感じながら荷やっかいな下駄を引きずって歩き出した。 ころぶまいとする努力のために私は一心に地上を見て体中の神経を足の先に集めて居るとフイに耳元で、「やや・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・用事で公園をいそぎ足にぬけていたら、いかにも菊作りしそうな小商人風の小父さんが、ピンと折れ目のついた羽織に爪皮のかかった下駄ばきで、菊花大会会場と立札の立っている方の小道へ歩いて行きました。 先達って靖国神社のお祭りの時は、二万人ほどの・・・ 宮本百合子 「二人の弟たちへのたより」
・・・赤い爪革、メリンス羽織、休み日の娘が歌う色彩の音楽は一際高く青空の下に放散されて居る。―― 町の人々はもう馴れっこに成ってしまったのだろう。よそから来た者の心に、これ等の常ならぬ町の光景は何か可憐な思いを伴って感じられた。夕方同じ町を歩・・・ 宮本百合子 「町の展望」
出典:青空文庫