・・・ティアガルテンの冬木立や、オペラの春の夜の人の群や、あるいは地球の北の果の淋しい港の埠頭や、そうした背景の前に立つ佗しげな旅客の絵姿に自分のある日の片影を見出す。このような切れ切れの絵と絵をつなぐ詞書きがなかったら、これがただ一人の自分の事・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・ 以上は単に便宜上主として『灰汁桶』だけについて例証したのであるが、読者にしてもし同様の見地に立って他の巻々を点検するだけの労を惜しまれないならば、私のここに述べた未熟な所論の中に多少の真の片影のあることを認めてもらえるであろうと信ずる・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・数哩へだたった山々はゆるやかな起伏をもってうっすりと、あったまった大気の中に連っているのであるが、昔山々と市街との間をつないでいた村落や田園は片影をとどめない。 今日あるものは、満目の白い十字の墓標である。幾万をもって数えられるかと思う・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
・・・漱石の教養の歴史性の片影は、こういう点にも見られるのである。 鴎外は漱石とまたちがい、この文学者のドイツ・ロマン派の教養や医者としての教養や、政府の大官としての処世上の教養やらは、漱石より一層彼の人間性率直さを被うた。彼が最後の時期まで・・・ 宮本百合子 「作家と教養の諸相」
・・・彼のまわりには、夜学校の中にも、彼の求めているそれらしい人の片影すら見出せなかったのであった。 ところで、ゴーリキイが、カザンの町端れの空屋の中でプレハーノフの論文朗読を聴いた時、それに対するナロードニキの爆発的反撥の声の中に最もつ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・彼は突っ立ち上ると大理石の鏡面を片影のように辷って行くハプスブルグの娘の後姿を睨んでいた。「ルイザ」と彼は叫んだ。 彼女の青ざめた顔が裸像の彫刻の間から振り返った。ナポレオンの烱々とした眼は緞帳の奥から輝いていた。すると、最早や彼女・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・の滝万仞の絶壁に立つ時、堂々たる大蓮華が空を突いて聳だつ絶頂に白雲の皚々たるを望む時、吾人の胸はただ大なる手に圧せらるるを覚ゆ。これ吾人の心胸にひそむ「全き人格」の片影がその本体と共鳴するのである。しかしながら内心にひそむ芸術心なきもの、審・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫