・・・ 善ニョムさんは、片手を伸すと、一握りの肥料を掴みあげて片ッ方の団扇のような掌へ乗せて、指先で掻き廻しながら、鼻のところへ持っていってから、ポンともとのところへ投げた。「いい出来だ、これでお天気さえよきゃあ豊年だぞい」 善ニョム・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・然し、母上は懐の片手を抜いて、静に私の頭を撫で、「また、狐が出て来ました。宗ちゃんの大好きなを喰べてしまったんですって。恐いじゃありませんか。おとなしくなさい。」 雪は紛々として勝手口から吹き込む。人達の下駄の歯についた雪の塊が半ば・・・ 永井荷風 「狐」
・・・と、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気てはたまらん」と眉をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂の先を握って見て、「香でも焚きましょか」と立つ。夢の話しはまた延びる。 宣徳の香炉に紫檀の蓋があって、紫檀の蓋の真中には猿を彫んだ青・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・の如きは、片手に註解本をもつて読まない限り、僕等の如き無識低能の読書人には、到底その深遠な含蓄を理解し得ない。「ツァラトストラ」の初版が、僅かにただ三部しか売れなかつたといふ歴史は、この書物の出版当時に於て、これを理解し得る人が、全独逸に三・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ お熊は敷布団の下にあッた紙入れと煙草入れとを取り上げ、盆を片手に持ッて廊下へ出た。善吉はすでに廊下に見えず、かなたの吉里の室の障子が明け放してあった。「早くお臥みなさいまし。お寒うございますよ」と、吉里の室に入ッて来たお熊は、次の・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・芭蕉集中精細なるものを求むるに粽結片手にはさむ額髪五月雨や色紙へぎたる壁の跡のごとき比較的にしか思わるるあるのみ。蕪村集中にその例を求むれば鶯の鳴くや小き口あけてあぢきなや椿落ち埋む庭たつみ痩臑の毛に微風・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・だんだん上にのぼって行って、とうとうそのすりばちのふちまで行った時、片手でハンドルを持ってハンケチなどを振るんだ。なかなかあれでひどいんだろう。ところが僕等がやるサイクルホールは、あんな小さなもんじゃない。尤も小さい時もあるにはあるよ。お前・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・そして、片手の指には、火のつき煙の立つ煙草を挟んだまま、両足を開いて立ち、「失礼しました。左様なら」と云う。私も立って「左様なら」と云った。もう少しで、「一服つけて御出かけと云う処ですか」と云うところであった。・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・洋服の人も、袴を穿いた人も、片手に弁当箱を提げて出て来る。あらゆる大さ、あらゆる形の弁当が、あらゆる色の風炉鋪に包んで持ち出される。 ずらっと並んだ処を見渡すと、どれもどれも好く選んで揃えたと思う程、色の蒼い痩せこけた顔ばかりである。ま・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・とナポレオンは片手を上げて冗談を示すと、階段の方へ歩き出した。 ネーは彼の後から、いつもと違ったナポレオンの狂った青い肩の均衡を見詰めていた。「ネー、今夜はモロッコの燕の巣をお前にやろう。ダントンがそれを食いたさに、椅子から転がり落・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫