・・・ 茶めし餡掛、一品料理、一番高い中空の赤行燈は、牛鍋の看板で、一山三銭二銭に鬻ぐ。蜜柑、林檎の水菓子屋が負けじと立てた高張も、人の目に着く手術であろう。 古靴屋の手に靴は穿かぬが、外套を売る女の、釦きらきらと羅紗の筒袖。小間物店の若・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・東京ならば牛鍋屋か鰻屋ででもなければ見られない茶ぶだいなるものの前に座を設けられた予は、岡村は暢気だから、未だ気が若いから、遠来の客の感情を傷うた事も心づかずにこんな事をするのだ、悪気があっての事ではないと、吾れ自ら頻りに解釈して居るものの・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・一刻も早く酔いしれたく思って、牛鍋を食い散らしながら、ビイルとお酒とをかわるがわるに呑みまぜた。君、茶化してしまえないものがあったのである。呑んでも呑んでも酔えなかった。信じ給え。鏡の中のわが顔に、この世ならず深く柔和の憂色がただよい、それ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・酒を呑みたいなら、友人、先輩と牛鍋つつきながら悲憤慷慨せよ。それも一週間に一度以上多くやっては、いけない。侘びしさに堪えよ。三日堪えて、侘びしかったら、そいつは病気だ。冷水摩擦をはじめよ。必ず腹巻きをしなければいけない。ひとから金を借りるな・・・ 太宰治 「困惑の弁」
・・・地獄だ、地獄だ、と思いながら、私はいい加減のうけ応えをして酒を飲み、牛鍋をつつき散らし、お雑煮を食べ、こたつにもぐり込んで、寝て、帰ろうとはしないのである。 義。 義とは? その解明は出来ないけれども、しかし、アブラハムは、ひと・・・ 太宰治 「父」
・・・「さしみと、オムレツと、牛鍋とおしんこを下さい。」知っている料理を皆言ったつもりであった。 女中は、四十ちかい叔母さんで、顔が黒く、痩せていて、それでも優しそうな感じのいい人であった。私は、その女中さんにお給仕されて、ひとりで、めしを大・・・ 太宰治 「デカダン抗議」
・・・ しかし、その当時に、当時には御馳走と思われた牛鍋や安洋食を腹いっぱいに喰って、それであとで風邪を引いたというはっきりした経験はついぞ持合わせず、従ってM君の所説は一向に無意味なただの悪まれ口としか評価されないで閑却されていたのである。・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・学生の頃の最大のラキジュリーは豊国の牛鍋であった。色々の集会もここであった。天文関係の人が寄ったときにその頃発見された新星ノヴァ・ペルセイの話が出た。新星と豊国がその時から結合した。磁力測量に使う磁石棒の長さをミクロンまで精密に測ろうとして・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・ 自分はいつも人力車と牛鍋とを、明治時代が西洋から輸入して作ったものの中で一番成功したものと信じている。敢て時間の経過が今日の吾人をして人力車と牛鍋とに反感を抱かしめないのでは決してない。牛鍋の妙味は「鍋」という従来の古い形式の中に「牛・・・ 永井荷風 「銀座」
出典:青空文庫