・・・が、蜘蛛は――産後の蜘蛛は、まっ白な広間のまん中に、痩せ衰えた体を横たえたまま、薔薇の花も太陽も蜂の翅音も忘れたように、たった一匹兀々と、物思いに沈んでいるばかりであった。 何週間かは経過した。 その間に蜘蛛の嚢の中では、無数の卵に・・・ 芥川竜之介 「女」
上 夜、盛遠が築土の外で、月魄を眺めながら、落葉を踏んで物思いに耽っている。 その独白「もう月の出だな。いつもは月が出るのを待ちかねる己も、今日ばかりは明くなるのがそら恐しい。・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・ 今は物思いに沈んで、一秒の間に、婆が長物語りを三たび四たび、つむじ風のごとく疾く、颯と繰返して、うっかりしていた判事は、心着けられて、フト身に沁む外の方を、欄干越に打見遣った。 黄昏や、早や黄昏は森の中からその色を浴びせかけて、滝・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ こんなくだらない物思いに沈んでいるよりも、しばらく怠っていた海水浴でもして、すべての考えを一新してしまおうかと思いつき、まず、あぐんでいる身体を自分で引き立て、さんざんに肘を張って見たり、胸をさすって見たり、腕をなぐって見たりしたが、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・毎日のように、赤い姫君は、ぼんやりと遠くの空をながめて、物思いに沈んでいられました。すると、高い黒のシルクハットをかぶって、黒の燕尾服を着て、黒塗りの馬車に乗った皇子の幻が浮かんで、あちらの地平線を横切るのが、ありありと見えるのでありました・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・そして御殿の一室に、美しいお姫さまが住んでいられて、毎日、歌をうたい、いい音色をたてて音楽を奏せられ、そして、窓ぎわによりかかっては、遠くの空をながめられて、物思いにふけっていられました。そのことはだれも知ることができなかったのです。 ・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
・・・ すると、月は物思い顔にじっと自分を見ていたが、その儘黒い雲のうしろに隠れてしまったことを、海豹は思い出したのであります。 さびしい海豹は毎日毎夜、氷山のいただきにうずくまって、我が子供のことを思い、風のたよりを待ち、また、月のこと・・・ 小川未明 「月と海豹」
・・・ また、さびしい、室の裡に物思いに沈んで、眤と下を見つめて、何事をか考えている、青い顔の年老った女があろう。窓の障子の上には、夕暮方の光線がぼんやりと染んで、頭には幾分か白髪も交って頬に寄った小皺が目立って見える……室の中には、傷いた道・・・ 小川未明 「夕暮の窓より」
・・・』文造はしばらく物思いに沈んでいたが、寒気でもするようにふるえた。突然暇を告げて、そしてぼんやり自宅に帰った。かれは眩暈のするような高いところに立っていて、深い谷底を見下ろすような心地を感じた。目がぐるぐるして来て、種々雑多な思いが頭の中を・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・『ただその時は健康が思わしくないからあまり浮き浮きしないで物思いに沈んでいたに違いない。絶えず甲板の上に出で将来の夢を描いてはこの世における人の身の上のことなどを思いつづけていたことだけは記憶している。もちろん若いものの癖でそれも不思議・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
出典:青空文庫