・・・ 父が二階を下りて行った後、慎太郎は大きな眼を明いたまま、家中の物音にでも聞き入るように、じっと体を硬ばらせていた。すると何故かその間に、現在の気もちとは縁の遠い、こう云う平和な思い出が、はっきり頭へ浮んで来た。 ――これもまだ小学・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・その中に鈍い物音が、間遠に低く聞えるのは、今でも海が鳴っているらしい。 房子はしばらく立ち続けていた。すると次第に不思議な感覚が、彼女の心に目ざめて来た。それは誰かが後にいて、じっとその視線を彼女の上に集注しているような心もちである。・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・おまけに二人をまぎらすような物音も色彩もそこには見つからなかった。なげしにかかっている額といっては、黒住教の教主の遺訓の石版と、大礼服を着ていかめしく構えた父の写真の引き延ばしとがあるばかりだった。そしてあたりは静まり切っていた。基石の底の・・・ 有島武郎 「親子」
・・・明別荘の黒い窓はさびしげに物音の絶えた、土の凍た庭を見出して居る。その内春になった。春と共に静かであった別荘に賑が来た。別荘の持主は都会から引越して来た。その人々は大人も子供も大人になり掛かった子供も、皆空気と温度と光線とに酔って居る人達で・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ かっと逆上せて、堪らずぬっくり突立ったが、南無三物音が、とぎょッとした。 あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫として、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事不省ならんとす・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・そして町を離れて、野原の細道をたどる時分にはまた、彼のよい音色が、いろいろの物音の間をくぐり抜けてくるように、遠く町の方から聞こえてきました。 その翌日から、さよ子は二階の欄干に出て、このよい音色に耳を傾けたときには、ああやはりいまごろ・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・蔦が厚く扉をつつんだ開かずの門のくぐりから、寂寞とした境内にはいって玄関の前に目をつぶって突立った。物音一つ聴えなかった。暗い敷台の上には老師の帰りを待っているかのように革のスリッパが内へ向けて揃えられてあり、下駄箱の上には下駄が載って、白・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・――物音はみな、あるもののために鳴っているように思えた。アイスクリーム屋の声も、歌をうたう声も、なにからなにまで。 小婢の利休の音も、すぐ表ての四条通ではこんなふうには響かなかった。 喬は四条通を歩いていた何分か前の自分、――そこで・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 然にふと物音の為たようであるから何心なく頭を上げると、自分から四五間離れた処に人が立て居たのである。何時此処へ来て、何処から現われたのか少も気がつかなかったので、恰も地の底から湧出たかのように思われ、自分は驚いて能く見ると年輩は三十ば・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・入口に騒がしい物音が近づいた。ゴロ寝をしていた浜田たちは頭をあげた。食糧や、慰問品の受領に鉄道沿線まで一里半の道のりを出かけていた十名ばかりが、帰ってきたのだ。 宿舎は、急に活気づいた。「おい、手紙は?」 防寒帽子をかむり、防寒・・・ 黒島伝治 「前哨」
出典:青空文庫