・・・尤も国民的なる大芸術を興すには個人も国家もそれ相当に金と力と時間の犠牲を払わなければならぬ。万が一しくじった場合には損害ばかりが残って危険かも知れぬ。日本のような貧乏な国ではいかに思想上価値があるからとてもしワグナアの如き楽劇一曲をやや完全・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・悪戯の犠牲になった怪我人は絶息したまま仲間の為めに其の家へ運ばれた。太十は其夜も眠らなかった。彼は疲労した。七 怪我人は蘇生した。続いて脳震盪を起した。其家族は太十を告訴すると息巻いた。其間には人が立った。太十の姻戚も聚って・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・これが現代日本の大勢だとすればロマンチックの道徳換言すれば我が利益のすべてを犠牲に供して他のために行動せねば不徳義であると主張するようなアルトルイスチック一方の見解はどうしても空疎になってこなければならない。昔の道徳すなわち忠とか孝とか貞と・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・ 然りといえども勝氏も亦人傑なり、当時幕府内部の物論を排して旗下の士の激昂を鎮め、一身を犠牲にして政府を解き、以て王政維新の成功を易くして、これが為めに人の生命を救い財産を安全ならしめたるその功徳は少なからずというべし。この点に就ては我・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・そんなら銭の費らん研究法をしなくてはならんが、其には自分を犠牲にして解剖壇上に乗せて、解剖学を研究するより外仕方がない。当時は、医学上の大発見の為に毒薬を仰いだりした人の話が頭にあったから、そんな犠牲心も起したんだ。即ち私の心的要素を種々の・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・この男はきちんと日課に割り附けてある一日の午後を、どんな美しい女のためにでも、無条件に犠牲に供せようとは思わない。この心持は自分にもはっきり分かっている。そんなら何が今でもこの男に興味を感ぜさせるかと云うと、それは女が自分のためにのぼせてく・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・野菜も又犠牲を払うというがそれはわれわれはよく知っている。だから物を浪費しないことは大切なことなのだ。但し穀作や何かならばそんなにひどく虫を殺したりもしないのだ。極端な例でだけ比較をすればいくらでもこんな変な議論は立つのです。結局我々はどう・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・今度の第二次世界戦争で、日本の軍事的権力は百四万以上の生命を犠牲とした。家庭は、既に強権によって、破壊されている。真に人間の心と体とが暖り合う家庭を破壊しながら、あらゆる社会的困難が発生すると、女子はすぐ家庭へ帰れるかのように責任回避して語・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・ 一の本能は他の本能を犠牲にする。 こんな事は獣にもあろう。しかし獣よりは人に多いようである。 人は猿より進化している。 森鴎外 「牛鍋」
・・・しかし自分を犠牲にしてまでそれに尽くしてくれる者はただ一人きりです。他の者たちは、私からされるように望んでいる事を私が果たさない場合に、やはり私を不満足に思います。そうしてそれがその人たちのツマラないわがままから出ている場合でも、私を怨み憤・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫