序 これはある精神病院の患者、――第二十三号がだれにでもしゃべる話である。彼はもう三十を越しているであろう。が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでもよい。彼はただじっと両膝・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・ 人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・そのせいか狂人も二人ばかりいます。一人は二十七八の女です。この女は何も口を利かずに手風琴ばかり弾いています。が、身なりはちゃんとしていますから、どこか相当な家の奥さんでしょう。のみならず二三度見かけたところではどこかちょっと混血児じみた、輪・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・その頃にフランシス――この間まで第一の生活の先頭に立って雄々しくも第二の世界に盾をついたフランシス――が百姓の服を着て、子供らに狂人と罵られながらも、聖ダミヤノ寺院の再建勧進にアッシジの街に現われ出した。クララは人知れずこの乞食僧の挙動を注・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・国事にでもあるいは自分の仕事にでも熱中すると、人と話をしていながら、相手の言うことが聞き取れないほど他を顧みないので、狂人のような状態に陥ったことは、私の知っているだけでも、少なくとも三度はあった。 父の教育からいえば、父の若い時代とし・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・ 馬鹿気ただけで、狂人ではないから、生命に別条はなく鎮静した。――ところで、とぼけきった興は尽きず、神巫の鈴から思いついて、古びた玩弄品屋の店で、ありあわせたこの雀を買ったのがはじまりで、笛吹はかつて、麻布辺の大資産家で、郷土民俗の趣味・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 為業は狂人です、狂人は御覧のごとく、浅間しい人間の区々たる一個の私です。 が、鍵は宇宙が奪いました、これは永遠に捜せますまい。発見せますまい、決して帰らない、戻りますまい。 小刀をお持ちの方は革鞄をお破り下さい。力ある方は口を・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ 入費は、町中持合いとした処で、半ば白痴で――たといそれが、実家と言う時、魔の魂が入替るとは言え――半ば狂人であるものを、肝心火の元の用心は何とする。……炭団、埋火、榾、柴を焚いて煙は揚げずとも、大切な事である。 方便な事には、杢若・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・モウパスサンは狂人になった。ニーチェも狂人になった。日本の文人は好い加減な処で忽ち人生の見巧者となり通人となって了って、底力の無い声で咏嘆したり冷罵したり苦笑したりする。 小生は文学論をするツモリで無いから文学其物に就ては余り多くを云う・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ 明くる日から、姉は、狂人のようになって、すはだしで港の町々を歩いて、弟を探しました。 月の光が、しっとりと絹糸のように、空の下の港の町々の屋根を照らしています。そこの、果物屋には、店頭に、遠くの島から船に積んで送られてきた、果物が・・・ 小川未明 「港に着いた黒んぼ」
出典:青空文庫