・・・ 巻頭に入れた地図は、足利で生まれ、熊谷、行田、弥勒、羽生、この狭い間にしかがいしてその足跡が至らなかった青年の一生ということを思わせたいと思ってはさんだのであった。 関東平野の人たちの中には、この『田舎教師』を手にしているのをそこ・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・土用の日ざしが狭い土堤いっぱいに涼しい松の影をこしらえて飽き足らず、下の蕃藷畑に這いかかろうとする処に大きな丸い捨石があって、熊さんのためには好い安楽椅子になっている。もう五十を越えているらしい。一体に逞しい骨骼で顔はいつも銅のように光って・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・舞台も狭いし、ここじゃやはり腕達者な二三流どこの役者がいいだろう」「そうかもしれません」「鴈治郎はよくかけ声か何かで飛びあがるね」「ほんとうにおかしな人。私あの顔嫌いや」「おもしろい役者じゃないか」 大切の越後獅子の中ほ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・女が肩肌抜ぎで化粧をしている様やら、狭い勝手口の溝板の上で行水を使っているさままでを、すっかり見下してしまう事がある。尤も日本の女が外から見える処で行水をつかうのは、『阿菊さん』の著者を驚喜せしめた大事件であるが、これはわざわざ天下堂の屋根・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・外の三四人が句切れ句切れに囃子を入れて居る。狭い店先には瞽女の膝元近くまで聞手が詰って居る。土間にも立って居る。そうして表の障子を外した閾を越えて往来まで一杯に成って居る。太十も其儘立って覗いて居た。斜に射すランプの光で唄って居る二女の顔が・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・門前に黒塗の車が待っていて、狭い格子の隙から女の笑い声が洩れる。ベルを鳴らして沓脱に這入る途端「きっと帰っていらっしゃったんだよ」と云う声がして障子がすうと明くと、露子が温かい春のような顔をして余を迎える。「あなた来ていたのですか」・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・私は町の或る狭い横丁から、胎内めぐりのような路を通って、繁華な大通の中央へ出た。そこで目に映じた市街の印象は、非常に特殊な珍しいものであった。すべての軒並の商店や建築物は、美術的に変った風情で意匠され、かつ町全体としての集合美を構成していた・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・入口から這入る所は狭いベトンの道になっていて、それが綺麗に掃除してある。奥の正面に引っ込んだ住いがある。別荘造りのような構えで、真ん中に広い階段があって、右の隅に寄せて勝手口の梯が設けてある。家番に問えば、目指す家は奥の住いだと云った。・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・そうすると狭い壁と壁との間に迷や涙で包まれた陰気な世界が出来て、人の心はこの中に擒にせられてしまうのだ。あるいは幾人か集って遠い処に行っている一人を思ったり、あるいは誰か一人に憂き事があるというと、皆が寄って慰めるのだ。しかし己は慰めという・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・木曾へ這入ると山と川との間の狭い地面が皆桑畑である。その桑畑の囲いの処には幾年も切らずにいる大きな桑があってそれには真黒な実がおびただしくなっておる。見逃がす事ではない、余はそれを食い始めた。桑の実の味はあまり世人に賞翫されぬのであるが、そ・・・ 正岡子規 「くだもの」
出典:青空文庫