・・・ しかしこのできるはずのことがなかなか容易にできないのは多くの場合に群集が周章狼狽するためであって、その周章狼狽は畢竟火災の伝播に関する科学的知識の欠乏から来るのであろう。火がおよそいかなる速度でいかなる方向に燃え広がる傾向があるか、煙・・・ 寺田寅彦 「火事教育」
・・・ 道太はひどく狼狽したが、かろうじて支えていた。「こっちへ来ると、何かあるのも変だな」道太は呟いたが、何か東京の方へ通信があって、それで呼び返すための電報じゃないかと、ちょっとそういう疑いも起こった。ここへ来てから、彼は東京へ一度し・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・しかるに管下の末寺から逆徒が出たといっては、大狼狽で破門したり僧籍を剥いだり、恐れ入り奉るとは上書しても、御慈悲と一句書いたものがないとは、何という情ないことか。幸徳らの死に関しては、我々五千万人斉しくその責を負わねばならぬ。しかしもっとも・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・とわたしは唖々子をその場に待たせて、まず冠っていた鳥打帽を懐中にかくし、いかにも狼狽した風で、煙草屋の店先へ駈付けるが否や、「今晩は。急に御願いがあるんですが。」 帽子をかくしたのは友達がわたしの家へ馬をつれて来たので、わたしは家人・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・車掌は受取ったなり向うを見て、狼狽てて出て行き数寄屋橋へ停車の先触れをする。尾張町まで来ても回数券を持って来ぬので、今度は老婆の代りに心配しだしたのはこの手代で。しかしさすがに声はかけず、鋭い眼付で瞬き一ツせず車掌の姿に注目していた。車の硝・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・と降参人たる資格を忘れてしきりに汗気かんきえんを吹いている、すると出し抜に後ろから Sir ! と呼んだものがある、はてな滅多な異人に近づきはないはずだがとふり返ると、ちょっと人を狼狽せしむるに足る的の大巡査がヌーッと立っている、こちらはこ・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ もとより直接に事物を教えんとするもでき難きことなれども、その事にあたり物に接して狼狽せず、よく事物の理を究めてこれに処するの能力を発育することは、ずいぶんでき得べきことにて、すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を・・・ 福沢諭吉 「文明教育論」
・・・ 一方で高倉テル氏をつかまえ自由を剥奪し、ハンストを行わせるまでにしながらかくすよりあらわるるはなしで、こんなくだらないことでこれほど民自党を周章狼狽させた泉山蔵相は現代のカリカチュアです。 山下春江代議士の日ごろの態度にもすきがあ・・・ 宮本百合子 「泉山問題について」
・・・大衆の圧力と、彼等の狼狽が、新聞の大きい活字と活字の間から湧きたって感じられる。「――到頭最後の悲鳴をあげたね」 主任が、ジロジロ私の上気し、輝いている顔を偸見ながら云った。「…………」 自分は黙ったまま、飽かずその記事をよ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 叔父は少からず狼狽した。「なる程。それは時と場合とに依る事で、わしもきっととは云い兼ねる。出来る事なら、どうにでもしてお前をその場へ呼んで遣るのだ。万一間に合わぬ事があったら、それはお前が女に生れた不肖だと、諦めてくれるより外ない」・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫