・・・その眼は明らかに猜疑の光を含んで、鋭く矢部の眼をまともに見やっていた。 最後の白兵戦になったと彼は思った。 もう夕食時はとうに過ぎ去っていたが、父は例の一徹からそんなことは全く眼中になかった。彼はかくばかり迫り合った空気をなごやかに・・・ 有島武郎 「親子」
・・・彼らはいわゆる社会運動家、社会学者の動く所には猜疑の眼を向ける。公けにそれをしないまでも、その心の奥にはかかる態度が動くようになっている。その動き方はまだ幽かだ。それゆえ世人一般はもとよりのこと、いちばん早くその事実に気づかねばならぬ学者思・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・て突進しようという勇敢な人道主義者――、常に異常な注意力と打算力とを以て自己の周囲を視廻し、そして自己に不利益と見えたものは天上の星と雖も除き去らずには措かぬという強猛な感情家のY、――併し彼は如何に猜疑心を逞しゅうして考えて見ても、まさか・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・頼朝だって、ただ猜疑心の強い、攻略一ぽうの人ではなかった。平治の乱に破れて一族と共に東国へ落ちる途中、当時十三歳の頼朝は馬上でうとうと居睡りをして、ひとり、はぐれた。平治物語に拠ると、「十二月二十七日の夜更方の事なれば、暗さは暗し、先も見え・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・その頃の世の中には猜疑と羨怨の眼が今日ほど鋭くひかり輝いていなかったのである。 その夜、わたくしと娘とはいつものように、いつもの道を行こうとしたが、二足三足踏み出すが早いか、雪は忽ち下駄の歯にはさまる。風は傘を奪おうとし、吹雪は顔と着物・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・に人を馬鹿にする時、その妹の十一貫目の婆さんは、瞬きもせず余が黄色な面を打守りていかなる変化が余の眉目の間に現るるかを検査する役目を務める、御役目御苦労の至りだ、この二婆さんの呵責に逢てより以来、余が猜疑心はますます深くなり、余が継子根性は・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・に関係があるかもしれぬという名誉の猜疑心を誘発させたところの鞣外套をひっかけてとび出してしまった。 後から、駅の待合室へ行って見たが、そんな名物の売店なし。又電燈でぼんやり照らされている野天のプラットフォームへ出て、通りかかった国家保安・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・そして、われわれ日本の読者の悲劇は、ヨーロッパ現代文学の中でも、歴史様相に対して最も猜疑心の深い動機にたつ作品が、このんで紹介され、高い翻訳料を支払うために熱心に広告されるということである。 現代文学の中には、まともに、野暮にくい下って・・・ 宮本百合子 「「下じき」の問題」
・・・その不幸をオセロにうちあけないでいるうちに、イヤゴーはオセロの猜疑と嫉妬をかきたてることに成功した。黒人のオセロは、ただ良人として嫉妬したばかりでなく、一人の人間として、デスデモーナの浮薄さに自分の威厳を傷けられたことをも、たえがたく感じて・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・ 幼年時代は祖父の家の恐ろしい慾心の紛糾を目撃し、転々と移ったこれまでの仕事の間では小市民的な日暮しのあくせくした猜疑に煩わされて来た。十五のゴーリキイにとって、これらの荷揚人足、浮浪人、泥棒の仲間は、彼等の極端な貧窮、不幸により、而も・・・ 宮本百合子 「逝けるマクシム・ゴーリキイ」
出典:青空文庫