・・・色の黒い、近眼鏡をかけた、幾分か猫背の紳士である。由来保吉の勤めている海軍の学校の教官は時代を超越した紺サアジ以外に、いかなる背広をも着たことはない。粟野さんもやはり紺サアジの背広に新らしい麦藁帽をかぶっている。保吉は丁寧にお時儀をした。・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・外の光になれた私の眼には家の中は暗くて何も見えなかったが、その明るい縁さきには、猫背のおばあさんが、古びたちゃんちゃんを着てすわっていた。おばあさんのいる所の前がすぐ往来で、往来には髪ののびた、手も足も塵と垢がうす黒くたまったはだしの男の児・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・倭小な体躯を心もち猫背にかがめているのも、二年前と変らぬお前の癖だった。「こいつ奴!」 と、思わず出掛った言葉に代る「よう!」という声をいっしょにあわててチラシをうけとったが、それは見ずに、「どうしてたんだい? 妙なところで会う・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・天龍寺の玄関を上って左へ折れすぐまた右へ折れたところに対局場にあてられた大書院があったのだが、花田八段は背中を猫背にまるめて自分の足許を見つめながら、ずんずんと廊下の端まで直っすぐに行ってしまい、折れるのを忘れてしまうのである。「花田さん、・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・背の高いお人好の主人は猫背で聾である。その猫背は彼が永年盆や膳を削って来た刳物台のせいである。夜彼が細君と一緒に温泉へやって来るときの恰好を見るがいい。長い頸を斜に突き出し丸く背を曲げて胸を凹ましている。まるで病人のようである。しかし刳物台・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・ まあ、農村からひょっくり東京見物に出てきた、猫背の若年寄を想像せられたい。尻からげをして、帯には肥料問屋のシルシを染めこんだ手拭をばさげて居る。どんなことを喋って居るか、それは、ちょっと諸君が傍へ近よって耳を傾けても分らんかもしれん。・・・ 黒島伝治 「自画像」
・・・ 中学校へはいってからは、校規のきびしい学校でしたので、おしゃれも仲々むずかしく、やけくそになって、ズボンの寝押しも怠り、靴も磨かず、胴乱をだらんとさげて、わざと猫背になって歩きました。そのときの猫背が癖になって、十五年のちの、いまにな・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・ 私は猫背になって、のろのろ歩いた。霧が深い。ほんのちかくの山が、ぼんやり黒く見えるだけだ。南アルプス連峰も、富士山も、何も見えない。朝露で、下駄がびしょぬれである。私はいっそうひどい猫背になって、のろのろ帰途についた。橋を渡り、中学校・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・四十歳ちかいボーイは、すこし猫背で、気品があった。 乙彦は笑って、「お世話になる。」「どうも。」給仕人は、その面のような端正の顔に、ちらとあいそ笑いを浮べて、お辞儀をした。 そのまま、乙彦は外へ出た。ステッキを振って日比谷のほう・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・片方は糸で修繕した鉄ぶちの眼がねをかけ、スナップ三つあまくなった革のカバンを膝に乗せ、電車で、多少の猫背つかって、二日すらない顎の下のひげを手さぐり雨の巷を、ぼんやり見ている。なぐられて、やかれて、いまはくろがねの冷酷を内にひそめて、・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
出典:青空文庫