・・・げ、げ、現実ですよ。東、東京の労働者……。ア、ア、アナ、アナルコサンジカリズムなんか……」 と、やっきになっているけれど、彼はひどい吃りなので、すぐ何倍も大きな高坂の声にかきけされてしまった。「――だからさ、だからわしは、小野がいる・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ここにおいてわたくしは三、四十年以前の東京にあっては、作者の情緒と現実の生活との間に今日では想像のできない美妙なる調和があった。この調和が即ちかくの如き諸篇を成さしめた所以である事を感じるのである。 明治三十年代の吉原には江戸浄瑠璃に見・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・その他四角だろうが三角だろうが幾何的に存在している限りはそれぞれの定義でいったん纏めたらけっして動かす必要もないかも知れないが、不幸にして現実世の中にある円とか四角とか三角とかいうもので過去現在未来を通じて動かないものははなはだ少ない。こと・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・日本人の物の見方考え方の特色は、現実の中に無限を掴むにあるのである。しかし我々は単に俳句の如きものの美を誇とするに安んずることなく、我々の物の見方考え方を深めて、我々の心の底から雄大な文学や深遠な哲学を生み出すよう努力せなければならない。我・・・ 西田幾多郎 「国語の自在性」
・・・だが日本の兵士たちは、もっと勇敢で規律正しく、現実的な戦意に燃えていた。彼らは銃剣で敵を突き刺し、その辮髪をつかんで樹に巻きつけ、高粱畠の薄暮の空に、捕虜になった支那人の幻想を野曝しにした。殺される支那人たちは、笛のような悲声をあげて、いつ・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・彼の鋭くとがった神経は針でも通されたように、彼を冷たい沼の水のような現実に立ち返らせた。が、彼は盗棒に忍び込まれた娘のように、本能的に息を殺しただけであった。 やがて、電燈のスイッチがパチッと鳴ると同時に部屋が明るくなった。深谷が寝台か・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・仙人のごとき仏のごとき子供のごとき神のごとき曙覧は余は理想界においてこれを見る、現実界の人間としてほとんど承認するあたわず。彼の心や無垢清浄、彼の歌や玲瓏透徹。 貧、かくのごとし、高、かくのごとし。一たびこれに接して畏敬の念を生じたる春・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・からのち、益々解放運動とその文学運動の中心課題にてい身してゆくにつれ、論策も主としてプロレタリア文化・文学運動の基本的方向の提示とその科学的な方法論にうつって行ったことは現実と実感の必然であった。 短い月日の間に、はげしく推移する情勢に・・・ 宮本百合子 「巖の花」
・・・ ――いかなるものと雖も、わが国の現実は、資本主義であると云う事実を認めねばならぬ。と。 此の一大事実を認めた以上は、われわれはいかに優れたコンミニストと雖も、資本主義と云う社会を、敵にこそすれ、敵としたるがごとくしかく有力な社・・・ 横光利一 「新感覚派とコンミニズム文学」
・・・要するに私は要求と現実とを混同する夢想家に過ぎなかった。 こうして私は自分の才能に失望してかなりに苦しむ。しかし私は思う。私の問題は与えられた物が何であるかに――私の Was にあるのではなかった。私はただ与えられた物を愛し育てるために・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫