・・・拾五円方人に対する労力を費す、そうして拾五円現金で入ればすなわちその拾五円は己のためになる拾五円に過ぎない。同じ訳で人のためにも千円の働きができれば、己のために千円使うことができるのだから誠に結構なことで、諸君もなるべく精出して人のためにお・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・人間は実に現金なものであるということを今更に知ることが出来る。○去年の春であったか、非無という年の若い真宗坊さんが来て談しているうちに、話頭はふと宗教の上に落ちて「君に宗教はいらないでしょう」と坊さんが言い出した。そこで「宗教がいるかい・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・ペンキ屋「あのう、実はどちらさまにも現金に願ってございますので。」爾薩待「いや、それはそうだろう。けれどもね、ぼくも茲でこうやって医者を開業してみれば、別に夜逃げをする訳でもないんだから、月末まで待ってくれたまえ。」ペンキ屋「え・・・ 宮沢賢治 「植物医師」
・・・不況な農村のありあまった労力が現金にかえられるところに、親のよろこびもあるであろう。 けれども、作業場といえば、おのずから採光や換気のことも考えられる。日本が世界第一の結核国であり、若い女の死亡率が最高であることも考えられる。 工場・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・貧乏のために娘を吉原に売るよりはまだ女工の方が人間なみの扱いと思って紡績工場に娘をやって、その娘は若い命を減しながら織った物が、まわりまわってその人たちの親の財布から乏しい現金をひき出してゆくという循環がはじまった。日本の農村生活は封建と資・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・月給百五十円以上の人々は、現金としては半額しか入っていない月給袋をうけとった。すぐ振替えをとることが出来るのだそうだけれど、私たちは閃くような思いで、うちはどうするのだろう、と考える。先日の新聞には、月給百五十円の人の家計は昨今五十円ずつ足・・・ 宮本百合子 「家庭と学生」
・・・ こういう有様で、その四十万円の修繕をやるにつけても、ドック会社は現金欠乏であった。そこで会社は材料を持つだけにして、労働者の方は、夫々の組から入れさせることにした。組が入れた労働者には、工場法が適用されない。そのこともあるのであった。・・・ 宮本百合子 「くちなし」
・・・ 太郎兵衛はそれまで正直に営業していたのだが、営業上に大きい損失を見た直後に、現金を目の前に並べられたので、ふと良心の鏡が曇って、その金を受け取ってしまった。 すると、秋田の米主のほうでは、難船の知らせを得たのちに、残り荷のあったこ・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・それも現金で物が買って食べられる時は、わたくしの工面のいい時で、たいていは借りたものを返して、またあとを借りたのでございます。それがお牢にはいってからは、仕事をせずに食べさせていただきます。わたくしはそればかりでも、お上に対して済まない事を・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・ 私は決して徼幸者に現金をわたさない。これが徼幸者に対する一つの原則である。そこで私はF君にこんな事を言った。君はドイツ語が好く出来る。私の君を知っているのは只それだけである。それだけでは、君と同居しようとまでは、私には思われない。そこ・・・ 森鴎外 「二人の友」
出典:青空文庫