・・・白は客の顔を映している理髪店の鏡を恐れました。雨上りの空を映している往来の水たまりを恐れました。往来の若葉を映している飾窓の硝子を恐れました。いや、カフェのテエブルに黒ビイルを湛えているコップさえ、――けれどもそれが何になりましょう? あの・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・しかし僕は十年ののち、海軍機関学校の理髪師に頭を刈ってもらいながら、彼もまた日露の戦役に「朝日」の水兵だった関係上、日本海海戦の話をした。すると彼はにこりともせず、きわめてむぞうさにこう言うのだった。「なに、あの信号は始終でしたよ。それ・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合せていた。彼は棗のようにまるまると肥った、短い顋髯の持ち主だった。僕は時間を気にしながら、時々彼と話をした。「妙なこともありますね。××さんの屋敷には昼間でも幽霊が出るって云うんですが」「・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ 善良な理髪師の如く、善良な靴匠の如く、私は、また真実な一文筆者として使命を果たしたいと思っています。幸に、男子にとって、厄年である四十三も、無事に過ぎたことを祝福します。――十三年十二月――・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・郵便局がある。理髪店がある。其の他いろんな店がある。これに較べると上林は淋しい。宿屋が二三軒あるばかりである。山が裏手に幾重にも迫って、溪の底にも溪がある。点々としている自然、永劫の寂寥をしみ/″\味わうというなら此処に来るもいゝが、陰気と・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・既に事変下で、新体制運動が行われていたある日の新聞を見ると、政府は国民の頭髪の型を新体制型と称する何種類かの型に限定しようとしているらしく、全国の理髪店はそれらの型に該当しない頭髪の客を断ることを申し合わせたというのである。 私はことの・・・ 織田作之助 「髪」
・・・自分は今散髪の職人をしているのだが、今度わけがあってせんに働いていた市岡の理髪店を暇取って、新世界の理髪店で働こうと思う。それについて保証人がいるのだが、自分には両親もきょうだいも身寄りもない、ついては保証人になって貰えないだろうかと言うこ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ つまりはよしやろうだなと呟き呟き行くと、その道には銭湯があり八百屋があり理髪店があった。理髪店から「友田……」という話声が聴えて来た。パン屋の陳列ガラスの中には五つ六つのパンがさびしく転っていた。「電気マッサージ」と書いた看板の上に赤・・・ 織田作之助 「道」
・・・中風で寝ている父親に代って柳吉が切り廻している商売というのが、理髪店向きの石鹸、クリーム、チック、ポマード、美顔水、ふけとりなどの卸問屋であると聞いて、散髪屋へ顔を剃りに行っても、其店で使っている化粧品のマークに気をつけるようになった。ある・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・但し、理髪店から「友田……」の声がきこえて来るところ、あそこがこの小説の眼目です。この友田は「聴雨」の坂田と同じ重要性をもっているのです。友田も坂田も青春なき「私」のある時代に映じたある青春の象像です。それで理髪店の「友田……」という声がき・・・ 織田作之助 「吉岡芳兼様へ」
出典:青空文庫