・・・先には土いきれに凋んだ莟が、花びらを暑熱にねじられながら、かすかに甘いにおいを放っていた。雌蜘蛛はそこまで上りつめると、今度はその莟と枝との間に休みない往来を続けだした。と同時にまっ白な、光沢のある無数の糸が、半ばその素枯れた莟をからんで、・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・ 志村の大将、その時分は大真面目で、青木堂へ行っちゃペパミントの小さな罎を買って来て、「甘いから飲んでごらん。」などと、やったものさ。酒も甘かったろうが、志村も甘かったよ。 そのお徳が、今じゃこんな所で商売をしているんだ。シカゴにい・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・それから食膳の豊かすぎることを内儀さんに注意し、山に来たら山の産物が何よりも甘いのだから、明日からは必ず町で買物などはしないようにと言い聞かせた。内儀さんはほとほと気息づまるように見えた。 食事が済むと煙草を燻らす暇もなく、父は監督に帳・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 見ても、薄桃色に、また青く透明る、冷い、甘い露の垂りそうな瓜に対して、もの欲げに思われるのを恥じたのであろう。茶店にやや遠い人待石に―― で、その石には腰も掛けず、草に蹲って、そして妙な事をする。……煙草を喫むのに、燐寸を摺った。・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 僕の考え込んだ心は急に律僧のごとく精進癖にとじ込められて、甘い、楽しい、愉快だなどというあかるい方面から、全く遮断されたようであった。 ふと、気がつくと、まだ日が暮れていない。三人は遠慮もなくむしゃむしゃやっている。僕は、また、猪・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・「それは、野にも、山にも、圃にも、花という花はあったし、やんわりとした空気には、甘い香りがただよっていた。鳥が鳴き、流れがささやき、風さえうたうのだから音楽がいたるところできかれたものだ。それは、このごろの悲しい歌とちがって力のあふれた・・・ 小川未明 「冬のちょう」
・・・組に漆山文子という畳屋町から通っている子がいて、芸者の子らしく学校でも大きな藤の模様のついた浴衣を着て、ひけて帰ると白粉をつけ、紅もさしていましたが、奉公に行けば、もうその子の姿も見られなくなるという甘い別れの感傷も、かえって私の決心を固め・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・…… 堯は五六年前は、自分の病気が約束している死の前には、ただ甘い悲しみを撒いただけで通り過ぎていた。そしていつかそれに気がついてみると、栄養や安静が彼に浸潤した、美食に対する嗜好や安逸や怯懦は、彼から生きていこうとする意志をだんだんに・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ところが又先方は甘いことを話して聞かすんです。やれ自然がどうだの、石狩川は洋々とした流れだの、見渡すかぎり森又た森だの、堪ったもんじゃアない! 僕は全然まいッちまいました。そこで僕は色々と聞きあつめたことを総合して如此ふうな想像を描いていた・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・恋愛の陶酔から入って、それからさめて、甘い世界から、親としてのまじめな養育、教育のつとめに移って行く。スイートホームというけれども、恋愛の甘さではなく、こうなってから初めて夫婦愛が生まれてくる。子どもを可愛がる夫婦というのはよそ目にも美しく・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
出典:青空文庫