・・・お言葉に甘えて老僕イシャク・バイをつかわす。この男の口中の格好はだいたい自分のと同様である。もっともこの男には歯が一本もないが自分には上の左の犬歯が一本残っている。それでこの男の口に合うようにして、ただし犬歯の所だけ明けておいてくれ」と言っ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・赤は異様な一群を見て忽ちに吠え迫った。瞽女は滑稽な程慌てた。太十は何ということはなく笑った。そうして赤を叱った。赤は甘えて太十に飛びついた。更に又瞽女の一人にも飛びついた。瞽女はきゃっと驚いた。お石は自分の犬がこんなに威勢よく大きくなったの・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・自分が親切と思ってしたこと、そのことが思っていたような結果としてはあらわれず、自分が自分の親切に甘えたということばかりが思い当るような気持のことがあって、私はうちにいたくなかった。そして、雨の外を歩いていた。 いろいろの心持を感じながら・・・ 宮本百合子 「映画」
・・・女を度しがたい的可愛さにおく女の主観的生きかたも、女がそれに甘えかかって永劫に幸福でもあり得まい。チェホフの「可愛い女」という短篇があって、ああいう女を妻に欲しいという回答を婦人雑誌の質問に対して与えていた青年があった。チェホフは知られてい・・・ 宮本百合子 「女の歴史」
・・・ 時代の荒さ、事々のむずかしさに甘えて、私たちは自身の世代というものを、ただ何とか生きすぎたという空虚なものに終らせたくはないと思う。 家庭というものについても、現代は観念の上で、或は道義の論として大変大切にいわれながら、家庭の現実・・・ 宮本百合子 「家庭と学生」
・・・稲子さんは、互の友情にも甘えないひとである。センチメンタルなところがすこしもない。これは女として新しいタイプであり、その点、稲子さんの良人となり友人となる者にとっては、或るこわさがある。対手を高める力として作用する隠されたこわさがある。稲子・・・ 宮本百合子 「窪川稲子のこと」
・・・ それには千葉先生が担任でなくて、一定の距離と自由のある位置にいられたこともよかったのだろうし、また、若い娘の感情に通暁していて、常にある程度は整理した心持で、甘えず信頼することを学ぶようにされたことも、よかったのだろう。 女学校の・・・ 宮本百合子 「時代と人々」
・・・病人さんは子供ではないのだけれど、この頃のことだから甘えてキャラメルがほしいという注文を出した。 キャラメルが欲しいと、大きい子供まである姉さんにたのまれた妹は、これももう子持ちになっていて、キャラメル一つを、大きい注文うけた気でさがし・・・ 宮本百合子 「諸物転身の抄」
・・・ 私は種々喋った末何の気なしに甘えた口調で友達の一人が自分を酷めて困る事を告げ、或る慰めと同意をかすかに期待しながら、「ほんとうにいやな人なのよ、 私憎らしくって仕様がないわ。と云うと、思いがけず私の延して居た腕に飛・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・しかし後になっておいおいにわかって来たことであるが、漱石に楯をついていた先輩の連中でも、皆それぞれに漱石に甘える気持ちを持っていた。それを漱石は心得ており、気炎をあげる連中は自分で気づかずにいたのだと思う。 この木曜会の気分は私には非常・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫