・・・醜い顔ではなかったが、それでも、何だか、みじめな生き物の感じで、美濃は軽い憤怒を覚えた。「ばかなやつだ。」と意味なく叱咤した。「あたし、」下婢は再びうなだれ、震え声で言った。「十郎様を、いけないお方だとばかり存じていました。」そこま・・・ 太宰治 「古典風」
・・・それは大海の孤島に緑の葉の繁ったふとい樹木が一本生えていて、その樹の蔭にからだをかくして小さい笛を吹いているまことにどうも汚ならしいへんな生き物がいる。かれは自分の汚いからだをかくして笛を吹いている。孤島の波打際に、美しい人魚があつまり、う・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・僕たちが焼酎を一升飲んでグウラグラになった、ちょうどあれくらいの気持で、この女類という生き物が、まじめな顔つきをして買い物やら何やらして、また男類を批評などしているのではないのかね。焼酎一升、たしかにそれくらいだ。しらふで前後不覚で、そうし・・・ 太宰治 「女類」
・・・「時計は、あれは生き物だね。深夜の十二時を打つときは、はじめから、音がちがうね。厳粛な、ためいきに似た打ちかたをするんだ。生きものなんだね。最初の一つ、ぼうんと鳴ると、もうそれで、あとは数を指折って勘定してみなくても、十二時だってことが、ち・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・帰りの電車に揺られながらも、この一団のきたない粘土の死塊が陶工の手にかかるとまるで生き物のように生長し発育して行く不思議な光景を幾度となく頭の中で繰り返し繰り返し思い起こしては感嘆するのであった。 人間その他多くの動物の胚子は始めは球形・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・少なくも子供たちに対する誘惑を無害な方面に転じる事になるだろうし、おとなに対しても三越というものの観念に一つの新しい道徳的な隈取りを与えはしまいか。生き物だから飼っておくのはめんどうだろうが。「三越に大概な物はあるが、日本刀とピストルが・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・「文学自体に外から生き物のように働きかける思想の力というようなものは当時の作家が夢にも考えなかったものである」と肯定されている。 世界思想史について些の常識を有する者には小林氏の以上のようなロシア文学史についての見解はそれなり賛同しかね・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・真個に足を地につけて、生き物として生き始めたとでも申しましょうか。今までの私は、生きると云う事を生きて来たのだと申さずには居られません。 概念と、只、自分のみの築き上げた象牙の塔に立て籠って、ちょいちょい外を覗きながら感動して居りました・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・目は上を見て手は生き物のようにみどりのラシャの上によこたわっています。そのやわらかい胸の中には何かうかびました。白い紙の上に一字、しなやかな美くしい字がそめられました。又一字、また一字、二枚の紙は美くしい文字にうずまり、また一枚も一枚も、テ・・・ 宮本百合子 「無題(一)」
出典:青空文庫