・・・海でなくて奥山にこんな貝がいるというのがいかにも不思議に思われたが、その貝の棲息状態などについてはだれも話してくれる人はなかった。海の「オコゼ」は魚であるのになぜ山の「オコゼ」が貝であるかも不可解であった。「山オコゼ」がどうして売り物に・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・『註文帳』は廓外の寮に住んでいる娼家の娘が剃刀の祟でその恋人を刺す話を述べたもので、お歯黒溝に沿うた陰欝な路地裏の光景と、ここに棲息して娼妓の日用品を作ったり取扱ったりして暮しを立てている人たちの生活が描かれている。研屋の店先とその親爺・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 夜烏子は山の手の町に居住している人たちが、意義なき体面に累わされ、虚名のために齷齪しているのに比して、裏長屋に棲息している貧民の生活が遥に廉潔で、また自由である事をよろこび、病余失意の一生をここに隠してしまったのである。或日一家を携え・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・その結果は現に吾々が生息している社会の実況を目撃すればすぐ分ります。活力節約の方から云えばできるだけ労働を少なくしてなるべくわずかな時間に多くの働きをしようしようと工夫する。その工夫が積り積って汽車汽船はもちろん電信電話自動車大変なものにな・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・御母さんは駄菓子を犬に取られるたびに泣き得るような平面に立って社会に生息していられるものではない。写生文家は思う。普通の小説家は泣かんでもの事を泣いている。世の中に泣くべき事がどれほどあると思う。隣りのお嬢さんが泣くのを拝見するのは面白い。・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・ 余は日本人として、神武天皇以来の日本人が、如何なる事業をわが歴史上に発展せるかの大問題を、過去に控えて生息するものである。固より余一人の仕事は、余一人の仕事に違いないのだから、余一人の意志で成就もし破壊もするつもりではあるが、余の過去・・・ 夏目漱石 「『東洋美術図譜』」
・・・以上を一口にして云えば物の内容を知り尽した人間、中味の内に生息している人間はそれほど形式に拘泥しないし、また無理な形式を喜ばない傾があるが、門外漢になると中味が分らなくってもとにかく形式だけは知りたがる、そうしてその形式がいかにその物を現す・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・ 我々人間としてこの世に存在する以上どうもがいても道徳を離れて倫理界の外に超然と生息する訳には行かない。道徳を離れることができなければ、一見道徳とは没交渉に見える浪漫主義や自然主義の解釈も一考して見る価値がある。この二つの言葉は文学者の・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・だから現今ぴんぴん生息している人間は皆不正直もので、律義な連中はとくの昔に、汽車に引かれたり、川へ落ちたり、巡査につかまったりして、ことごとく死んでしまったと御承知になれば大した間違はありません。 すでに空間ができ、時間ができれば意識を・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・してみるといわゆる文明社界に生息している人間ほど平等的なるものはなく、また個人的なるものはない。すでに平等的である以上は圏を画して圏内圏外の別を説く必要はない。英国の二大政党のごときは単に採決に便宜なる約束的の団隊と見傚して差支ない。またす・・・ 夏目漱石 「文壇の趨勢」
出典:青空文庫