・・・ところがこの頃退引ならない事情があって沼南に相談すると、君の事情には同情するが金があればいいがネ、と袂から蟇口を出して逆さに振って見せて、「ない、同情するには同情するが生憎僕にも金がない」という、こういう挨拶だ。貸す気がないなら貸さんでもい・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・「私に言ってるのならお生憎様。そりゃお酒を飲んだら赤くはなろうけど、端唄を転がすなんて、そんな意気な真似はお光さんの格にないんだから」「あんまりそうでもなかろうぜ。忘れもしねえが、何でもあれは清元の師匠の花見の時だっけ、飛鳥山の茶店・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・今夜は生憎ギラがサクイんだ」 ギラとは金、サクイとは乏しい。わざと隠語を使って断ると、そうですか、じゃ今度またと出て行った。 ほかの客に当らずに出て行った所を見ると、どうやら私だけが遊びたそうな顔をしていたのかと、苦笑していると、天・・・ 織田作之助 「世相」
・・・紀州は一言もいわず、生憎に嘆息もらすは翁なり。 家に帰るや、炉に火を盛に燃きてそのわきに紀州を坐らせ、戸棚より膳取り出だして自身は食らわず紀州にのみたべさす。紀州は翁のいうがままに翁のものまで食いつくしぬ。その間源叔父はおりおり紀州の顔・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・そういうところへ誰かが出て来ると、さあ周章て鉄砲を隠す、本を繰る、生憎開けたところと読んで居るところと違って居るのが見あらわされると大叱言を頂戴した。ああ、左様々々、まだ其頃のことで能く記臆して居ることがあります。前申した會田という人の許へ・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・これはもう長い年月の間、おげんが人知れず努めて来たことであった。生憎とその思出したばかりでも頭脳の痛くなるようなことが、しきりに気に掛った。ある日も、おげんは廊下の窓のところで何時の間にか父の前に自分を持って行った。 青い深い竹藪がある・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・着いた晩は、お三輪もお力の延べてくれた床に入って、疲れた身体を休めようとしたが、生憎と自動車や荷馬車の音が耳についてよくも眠られなかった。この公園に近い休茶屋の外には一晩中こんな車の音が絶えないのかとお三輪に思われた。 朝になって見ると・・・ 島崎藤村 「食堂」
先日、三田の、小さい学生さんが二人、私の家に参りました。私は生憎加減が悪くて寝ていたのですが、ちょっとで済む御話でしたら、と断って床から抜け出し、どてらの上に羽織を羽織って、面会いたしました。お二人とも、なかなかに行儀がよ・・・ 太宰治 「心の王者」
・・・ 帰って暫くすると、早大の佐藤さんが、こんど卒業と同時に入営と決定したそうで、その挨拶においでになったが、生憎、主人がいないのでお気の毒だった。お大事に、と私は心の底からのお辞儀をした。佐藤さんが帰られてから、すぐ、帝大の堤さんも見えら・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・お酒でもあるといいんだけど、二、三日前に配給されたお酒は、もう、その日のうちに飲んでしまって、まことに生憎でした。どこかへ飲みに出たいものですね。ところが、これも生憎で、あははは、――無いんだ。今月はお金を使いすぎて、蟄居の形なのです。本を・・・ 太宰治 「小さいアルバム」
出典:青空文庫