・・・樹の枝はみな生物のように垂れてその美しい果実を王子たちに奉った。 これを見たものみな身の毛もよだち大地も感じて三べんふるえたと云うのだ。いま私らはこの実をとることができない。けれどももしヴェーッサンタラ大王のように大へんに徳のある人なら・・・ 宮沢賢治 「学者アラムハラドの見た着物」
・・・ 四角な家の生物が、脚を百ぺん上げたり下げたりしたら、ペムペルとネリとはびっくりして眼を擦った。向うは大きな町なんだ。灯が一杯についている。それからすぐ眼の前は平らな草地になっていて、大きな天幕がかけてある。天幕は丸太で組んである。まだ・・・ 宮沢賢治 「黄いろのトマト」
・・・今これを生物分類学的に簡単に批判して見よう。ビジテリアンたちは、動物が可哀そうだという、一体どこ迄が動物でどこからが植物であるか、牛やアミーバーは動物だからかあいそう、バクテリヤは植物だから大丈夫というのであるか。バクテリヤを植物だ、アミー・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・けれどももし何かの自然の間違いで、胎生細胞がいくつか新しくなりきらないで、人間のからだの中にのこったまま生れたとき、成長してのちある生物的な条件のもとで、その細胞が異常な細胞増殖をはじめる。そしてそれは癌という致命的な病気の名をつけられてい・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・それは、決してわたしたち女性がおろかな生物だからではない。生の根源というものは、どんな歴史の現実に深く根をおろしているものであるかということの証拠であると思う。小船は、一つ一つの波にはゆられているが大局からみればちゃんと一定の方向で波全体を・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十五巻)」
・・・健康な、子供とふざけて芝生にころがり廻る幸福な飼犬と云うよりは、寧ろ、主人の永い留守、荒れ生垣の穴から、腰を落して這入る憐れな生物と云う方が適当であったらしい。 犬殺しが来た。荷車を引いて、棍棒を持って犬殺しが来た、と、私共同胞三人は、・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・ このように遺伝の作用をも内にはらむ人間の生命の生物としての構成の微妙さを私たちに知らせるのは生理学であろうが、H・G・ウェルズが書いた「生命の科学」も、それらの科学の業績に立って書かれた本として読まれてもよいものであろう。人間は生物と・・・ 宮本百合子 「科学の常識のため」
・・・生存競争が生物学上の自然の現象なら、これも自然の現象であろう。 八、創作家としての伎倆 少し読んだばかりである。しかし立派な伎倆だと認める。 九、創作に現れたる人生観 もっと沢山読まなくては判断がしに・・・ 森鴎外 「夏目漱石論」
・・・この人類の前にあっては、生物学的に意味せられた民族の別のごときは根本の問題ではない。我々がエジプトの彫刻に接して、その不思議な生きた感じに打たれるとき、我々は真実にエジプト人の血を受けるのである。我々が『イリアス』を読んでその雄渾清朗な美に・・・ 和辻哲郎 「『劉生画集及芸術観』について」
・・・霊水に凡俗を浴せしめ凡界を洗うの信念が無ければ仙人は鶴と類を同じゅうせる生物に過ぎない。 真と義と愛と荘とに対する絶対の執着即神の憧憬と悪の憎悪は「人」たるべき最大要件である。この自覚に立ってすべての人が奮闘したならば人生は理想化せられ・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫