・・・色の黒い、近眼鏡をかけた、幾分か猫背の紳士である。由来保吉の勤めている海軍の学校の教官は時代を超越した紺サアジ以外に、いかなる背広をも着たことはない。粟野さんもやはり紺サアジの背広に新らしい麦藁帽をかぶっている。保吉は丁寧にお時儀をした。・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ 外見 由来最大の臆病者ほど最大の勇者に見えるものはない。 人間的な 我我人間の特色は神の決して犯さない過失を犯すと云うことである。 罰 罰せられぬことほど苦しい罰はない。それも決・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・保吉は思わず顔をしかめた。由来子供は――殊に少女は二千年前の今月今日、ベツレヘムに生まれた赤児のように清浄無垢のものと信じられている。しかし彼の経験によれば、子供でも悪党のない訣ではない。それをことごとく神聖がるのは世界に遍満したセンティメ・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ タウンゼンド氏は頭の禿げた、日本語の旨い好々爺だった。由来西洋人の教師と云うものはいかなる俗物にも関らずシェクスピイアとかゲエテとかを喋々してやまないものである。しかし幸いにタウンゼンド氏は文芸の文の字もわかったとは云わない。いつかウ・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ さらば僕はいかに観音力を念じ、いかに観音の加護を信ずるかというに、由来が執拗なる迷信に執えられた僕であれば、もとよりあるいは玄妙なる哲学的見地に立って、そこに立命の基礎を作り、またあるいは深奥なる宗教的見地に居って、そこに安心の臍を定・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 由来我々筆舌の徒ほど始末の悪いものはない。談ずる処は多くは実務に縁の遠い無用の空想であって、シカモ発言したら々として尽きないから対手になっていたら際限がない。沼南のような多忙な政治家が日に接踵する地方の有志家を撃退すると同じコツで我々・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 由来革命の鍵はイツデモ門外漢の手に握られておる。政治上の革命がしばしば草沢の無名の英雄に成し遂げられるように、文芸上の革命もまた往々シロウトに烽火を挙げられる。京伝馬琴以後落寞として膏の燼きた燈火のように明滅していた当時の小説界も龍渓・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ 由来人間にはその時代に束縛せられず、又階級に拘束されずして、昔も今も人として立って行くべき上に、美くしい事、正しい事の感激がある。たゞその感激の表われが時代によっては違う。とにかくすべての人間は自然の上に対してある感激を有する。この美・・・ 小川未明 「人間性の深奥に立って」
・・・嘘をつく快楽が同時に真実への愛であることを、彼は大いに自得すべきである。由来、酒を飲む日本の小説家がこの間の事情にうといことが、日本の小説を貧困にさせているのかも知れない。 日本の文壇というものは、一刀三拝式の心境小説的私小説の発達に数・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・けなすのは、そのあとからでもよい。由来、この国の人は才能を育てようとしない。異色あるものに難癖をつけたがる。異分子を攻撃する。実に情けない限りだ。もっとも甘やかされるよりも、たたかれる方が、たたかれた新人自身を強くすることもある。僕は処女作・・・ 織田作之助 「文学的饒舌」
出典:青空文庫