・・・「いや、ものに誘われて、何でも、これは、言合わせたように、前後甲乙、さっぱりと三人同時だ。」「可厭ねえ、気味の悪い。」「ね、おばさん、日の暮方に、お酒の前。……ここから門のすぐ向うの茄子畠を見ていたら、影法師のような小さなお媼さ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・と出してやる、そして自分も煙草を出して、甲乙共、のどかに喫煙いだした。「君はどう思う、縁とは何ぞやと言われたら?」 と思考に沈んでいた乙が静かに問うた。「左様サね、僕は忘れて了った。……何とか言ったッけ。」と甲は書籍を拾い上げて・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・もし密教の大道理からいえば、荼枳尼も大日、他の諸天も大日、玄奥秘密の意義理趣を談ずる上からは、甲乙の分け隔てはなくなる故にとかくを言うのも愚なことであるが、先ず荼枳尼として置こう。荼枳尼天の形相、真言等をここに記するも益無きことであるし、か・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・全く同じ方向を意図し、甲乙の無い努力を以て進みながらも或る者は成功し、或る者は失敗する。けれども、成功者すなわち世の手本と仰がれるように、失敗者もまた、われらの亀鑑とするに足ると言ったら叱られるであろうか。人の振り見てわが振り直せ、とかいう・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・君もまたクライストのくるしみを苦しみ、凋落のボオドレエルの姿態に胸を焼き、焦がれ、たしかに私と甲乙なき一二の佳品かきたることあるべしと推量したからである。ただし私、書くこと、この度一回に限る。私どんなひとでも、馴れ合うことは、いやだ。 ・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・それで今甲の影像の次に乙の影像を示された観客はその瞬間においてその観客の通い慣れた甲乙間の通路の心像を電光に照らされるごとく認識するのであろう。 それで映画や連句のモンタージュが普遍的な効果を収めうるためには、作者が示そうとする「通路」・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・このような調節が出来たらこの二つの土器を、互いに通信を交わしたいと思う甲乙の二地点に一つずつ運んでおく。そこで甲地から乙地に通信をしようと思うときには先ず甲で松明を上げる。乙地でそれを認めたらすぐ返答にその松明を上げて同時に土器の底の栓を抜・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・二重人格者の甲乙の性格が交代で現われるような気がした。 今度は横顔でもやってみようと思って鏡を二つ出して真横から輪郭を写してみたら実に意外な顔であった。第一鼻が思っていたよりもずっと高くいかにも憎々しいように突き出ていて、額がそげて顋が・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・ そうはいうものの、同じ事件に関する甲乙二つの新聞の記事が、一つ一つ別々に見れば実にもっともらしくつじつまが合っているのに、両方を比較してみるとまるで別の事件のように思われるほどかけ違ったり事がらが反対になったりしている場合も決して少な・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・ この甲乙丙三種の定型はそれぞれに長所と短所をもっている。甲はうっかりにせ物に引っかかるような心配はほとんどない代わりに、どうかするとほんとうに価値のある新しいいいものを見のがす恐れがある。既知の真実を固守するにのみ忠実で未知の真実の可・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫