・・・ わたくしは遂に海を見ず、その日は腑甲斐なく踵をかえした。昭和廿二年十二月 永井荷風 「葛飾土産」
・・・果知らぬ原の底に、あるに甲斐なき身を縮めて、誘う風にも砕くる危うきを恐るるは淋しかろう。エレーンは長くは持たぬ。 エレーンは盾を眺めている。ランスロットの預けた盾を眺め暮している。その盾には丈高き女の前に、一人の騎士が跪ずいて、愛と信と・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 私は、同じ乗組の、同じ水夫としての、友達甲斐から、彼に、いや彼等に今、そのどこだったかを知らせなければならない。 それは、……………… だが、それがどこだったかは、もっと先になれば分るこった。 彼は、間もなく、床格・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・私も心配した甲斐があるというものだ。実にありがたかッた」 吉里は半ば顔を上げたが、返辞をしないで、懐紙で涙を拭いている。「他のことなら何とでもなるんだが、一家の浮沈に関することなんだから、どうも平田が帰郷ないわけに行かないんでね、私・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・、自分は既に証明を得たれども、扨帰国の上これを婦人社会の朋友に語るも容易に信ずる者なく、却て自分を目し虚偽を伝うる者なりとして、爾余の報告までも概して信を失うに至る可し、日本の婦人は実に此世に生きて生甲斐なき者なり、気の毒なる者なり、憐む可・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・しかし君のように誰のためにするでもなく、誰の恩を受けるでもなく、空しく生きて空しく死ぬるのに比べて見れば、僕は死んでも死甲斐があるのだ。主人。誰のためにするでもなく、誰の恩を受けるでもない。(徐譬えば下手な俳優があるきっかけで舞台に出て・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・、苦しみにより一層豊饒にし、賢くしてくれる恋愛、それから発足した範囲の広い愛の種々相に対して、私共は礼讚せずにはいられませんが、無限な愛の一分野と思われる恋愛ばかりを天地に漲り、それなくしては生きるに甲斐ないと云うもののように考えるのは、不・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・只りよ一人平作の家族に気兼をしながら、甲斐々々しく立ち働いていたが、午頃になって細川の奥方の立退所が知れたので、すぐに見舞に往った。 晩にりよが帰ると九郎右衛門が云った。「おい。もう当分我々は家なんぞはいらんが、若殿が旅に出て風を引かぬ・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・婦人の甲斐なさ、それよ忠義の志ばかりでおじゃるわ』とこの眼から張り切りょうずる涙を押えて……おおおれは今泣いてはいぬぞ、忍藻……おれも武士の妻あだに夫を励まし、聟を急いたぞ。そを和女、忍藻も見ておじゃったろうぞのう。武士の妻のこころばえはか・・・ 山田美妙 「武蔵野」
次の日曜には甲斐へ行こう。新緑はそれは美しい。そんな会話が擦れ違う声の中からふと聞えた。そうだ。もう新緑になっていると梶は思った。季節を忘れるなどということは、ここしばらくの彼には無いことだった。昨夜もラジオを聞いていると・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫