・・・ 僕はその何分か前に甲板の欄干へ凭りかかったまま、だんだん左舷へ迫って来る湖南の府城を眺めていた。高い曇天の山の前に白壁や瓦屋根を積み上げた長沙は予想以上に見すぼらしかった。殊に狭苦しい埠頭のあたりは新しい赤煉瓦の西洋家屋や葉柳なども見・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・もっとも、さっき甲板ではちょいと姿を見かけたが、その後、君の船室へもサロンへも顔を出さなかったので、僕はもう帰ったのかと思っていた。ところが、先生、僕をつかまえると、大元気で、ここへ来るといつでも旅がしたくなるとか、己も来年かさ来年はアメリ・・・ 芥川竜之介 「出帆」
・・・長雨の中に旗を垂らした二万噸の××の甲板の下にも鼠はいつか手箱だの衣嚢だのにもつきはじめた。 こう云う鼠を狩るために鼠を一匹捉えたものには一日の上陸を許すと云う副長の命令の下ったのは碇泊後三日にならない頃だった。勿論水兵や機関兵はこの命・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・沖の船の燈が二つ三つ、星に似て、ただ町の屋根は音のない波を連ねた中に、森の雲に包まれつつ、その旅館――桂井の二階の欄干が、あたかも大船の甲板のように、浮いている。 が、鬼神の瞳に引寄せられて、社の境内なる足許に、切立の石段は、疾くその舷・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 天は昏こんぼうとして睡り、海は寂寞として声無し。 甲板の上は一時頗る喧擾を極めたりき。乗客は各々生命を気遣いしなり。されども渠等は未だ風も荒まず、波も暴れざる当座に慰められて、坐臥行住思い思いに、雲を観るもあり、水を眺むるもあり、・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・ と波を打って轟く胸に、この停車場は、大なる船の甲板の廻るように、舳を明神の森に向けた。 手に取るばかりなお近い。「なぞえに低くなった、あそこが明神坂だな。」 その右側の露路の突当りの家で。…… ――死のうとした日の朝―・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・そして、その赤い船の甲板では、いい音楽の声がして、人々が楽しく打ち群れているのが見えました。」と語り聞かして、つばめは、またどこへか飛び去ってしまいました。 露子は、いまごろはその船は、どこを航海しているだろうかと考えながら、しばし・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・ 汽船は出た。甲板に立った銭占屋の姿がだんだん遠ざかって行くのを見送りながら、私は今朝その話の中に引いた唄の文句を思いだして、「どこのいずこで果てるやら――まったくだ、空飛ぶ鳥だ!」とそう思った。 が、その小蒸汽の影も見えなくな・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 船に上りしころは日ようやく暮れて東の空には月いで、わが影淡く甲板に落ちたり。卓あり、粗末なる椅子二個を備え、主と客とをまてり、玻璃製の水瓶とコップとは雪白なる被布の上に置かる。二郎は手早くコップに水を注ぎて一口に飲み干し、身を椅子に投・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・するため船艙におりし時、敵の魚形水雷命中したるをもって、ついに戦死せるもののごとく、広瀬中佐は乗員をボートに乗り移らしめ、杉野兵曹長の見当たらざるため自ら三たび船内を捜索したるも、船体漸次に沈没、海水甲板に達せるをもって、やむを得ずボートに・・・ 国木田独歩 「号外」
出典:青空文庫