・・・しかもその沢蟹はもう一匹の沢蟹を、――甲羅の半ば砕けかかったもう一匹の沢蟹をじりじり引きずって行くところなのです。僕はいつかクロポトキンの相互扶助論の中にあった蟹の話を思い出しました。クロポトキンの教えるところによれば、いつも蟹は怪我をした・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・いちばん遠い石は蟹の甲羅くらいな大きさに見える。それが近くなるに従ってだんだんに大きくなって、自分たちの足もとへ来ては、一間に高さが五尺ほどの鼠色の四角な石になっている。荒廃と寂寞――どうしても元始的な、人をひざまずかせなければやまないよう・・・ 芥川竜之介 「槍が岳に登った記」
・・・晴れきって明るくはあるが、どこか影の薄いような秋の日に甲羅を干しながら、ぼんやり河岸縁に蹲んでいる労働者もある。私と同じようにおおかた午の糧に屈托しているのだろう。船虫が石垣の間を出たり入ったりしている。 河岸倉の庇の下に屋台店が出てい・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・大工のせがれがショパンにあこがれ、だんだん横に太るばかりで、脚気を病み、顔は蟹の甲羅の如く真四角、髪の毛は、海の風に靡かすどころか、頭のてっぺんが禿げて来ました。そうして一合の晩酌で大きい顔を、でらでら油光りさせて、老妻にいやらしくかまって・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ お話のまえに、一こと、おことわりして置きたいこと、ほかではございませぬ、ここには、私すべてを出し切って居ませんよ、という、これはまた、おそろしく陳腐の言葉、けれどもこれは作者の親切、正覚坊の甲羅ほどの氷のかけら、どんぶりこ、どんぶりこ・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・されば河添いの妾宅にいる先生のお妾も要するに世間並の眼を以て見れば、少しばかり甲羅を経たるこの種類の安物たるに過ぎないのである。五 隣りの稽古唄はまだ止まぬ。お妾は大分化粧に念が入っていると見えてまだ帰らない。先生は昔の事を・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 倉庫は、街路に沿うて、並んで甲羅を乾していた。 未だ、人通りは余り無かった。新聞や牛乳の配達や、船員の朝帰りが、時々、私たちと行き違った。 何かの、パンだとか、魚の切身だとか、巴焼だとかの包み紙の、古新聞が、風に捲かれて、人気・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・尻尾の部分になる最後の一節だけ、艷のある甲羅のようなもので覆われている。一寸見ると、そして、這ってゆく方角を念頭に置かないと、その実は尻尾である茶色甲冑の方が頭と感違いされるのだ。私は、近ごろ熾になりたての熱心さでいい加減雑誌の上を這い廻ら・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・ 最う此の上ないほど暑い八月の或る日、裏の主婦が、海水浴をする時用う様な水着一枚で、あけ放った座敷の真中に甲羅干しの亀の子の様に子供達とゾックリ背中を並べてねて居たのなどを見て来ると、弟はむきになって、あんまりだらしがないとか、見っとも・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
出典:青空文庫