・・・と思うと乳ほどの水の中に立ち、もう一人の少女を招きながら、何か甲高い声をあげた。その顔は大きい海水帽のうちに遠目にも活き活きと笑っていた。「水母かな?」「水母かも知れない。」 しかし彼等は前後したまま、さらに沖へ出て行くのだった・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・芸者は時々坐ったなり、丁度胡弓の音に吊られるように甲高い唄をうたい出した。それは僕にも必ずしも全然面白味のないものではなかった。しかし僕は京調の党馬や西皮調の汾河湾よりも僕の左に坐った芸者に遥かに興味を感じていた。 僕の左に坐ったのは僕・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・そして並んで四ツ橋を渡り、文楽座の表まで来ると、それまでむっと黙っていた彼女は、疳高い早口の声で、「こんど店へ来はったら、一ぺん一緒に寝まひょな」とぐんと肩を押しながら赧い顔もせずに言った。心斎橋筋まで来て別れたが、器用に人ごみの中をか・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ ちょっと見には、つんとしてなにかかげの濃い冷い感じのある顔だったが、結局は疳高い声が間抜けてきこえるただの女だった。坂田のような男に随いて苦労するようなところも、いまにして思えば、あった。 あれはどないしてる? どないにして暮らし・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・かと思うと、些細なことで気にいらないことがあると、キンキンした疳高い声で泣き、しまいには外行きの着物のまま泥んこの道端へ寝転ぶのだった。欲しいと思ったものは誰が何と言おうと、手に入れなければ承知せず、五つの時近所の、お仙という娘に、茶ダンス・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・夕方には多勢のちいさな子供の声にまじって例の光子さんの甲高い声も家の外に響いたが、袖子はそれを寝ながら聞いていた。庭の若草の芽も一晩のうちに伸びるような暖かい春の宵ながらに悲しい思いは、ちょうどそのままのように袖子の小さな胸をなやましくした・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・と甲高い声で怒鳴るのでした。あの優しいお方が、こんな酔っぱらいのような、つまらぬ乱暴を働くとは、どうしても少し気がふれているとしか、私には思われませんでした。傍の人もみな驚いて、これはどうしたことですか、とあの人に訊ねると、あの人の息せき切・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・私は労働者と農民とのちからを信じて居る。私は派手な衣服を着る。私は甲高い口調で話す。私は独り離れて居る。射撃し易くしてやって居るのである。私の心にもなき驕慢の擬態もまた、射手への便宜を思っての振舞いであろう。自棄の心からではない。私を葬り去・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・やはり、女のように甲高い細い声であったが、せっぱつまったものの如く、多少は凜としていた。「おひとり? お二人?」「お二人だ。」うっかり私が答えてしまった。「どなた? 佐伯君、一緒の人は、誰ですか?」「知らない。」佐伯は、当惑の様・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・と女のような細い甲高い声で言って、私たちのほうを振りむき赤濁りに濁った眼を糸のように細くし顔じゅうをくしゃくしゃにして笑ってみせた。私は部屋から飛び出してお茶を取りに階下へ降りた。お茶道具と鉄瓶とを持って部屋へかえって来たら、もうすでに馬場・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
出典:青空文庫