・・・――いや、その辺の事なら、何も年よりの手前などが、わざわざ申し上げるまでもございますまい。」 翁は、また眦に皺をよせて、笑った。往来の影は、いよいよ長くなったらしい。吹くともなく渡る風のせいであろう、そこここに散っている桜の花も、いつの・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・その言葉とともに王氏の顔が、だんだん晴れやかになりだしたのは、申し上げるまでもありますまい。 私はその間に煙客翁と、ひそかに顔を見合せました。「先生、これがあの秋山図ですか?」 私が小声にこう言うと、煙客翁は頭を振りながら、妙な・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・しかしこれは今更のように申し上げる必要はありますまい。「ではこの『より善い半ば』や『より悪い半ば』は何を標準に区別しますか? こう言う問題を解決する為には、これも度たび申し上げた価値論へ溯らなければなりません。価値は古来信ぜられたように・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・兼ねて覚悟はしていたものの、いざ申し上げるとなって見ると、今更のように心が怯れたのです。しかし御主人は無頓着に、芭蕉の葉の扇を御手にしたまま、もう一度御催促なさいました。「どうじゃ、女房は相不変小言ばかり云っているか?」 わたしはや・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・これも図星に当ったのは、申し上げるまでもありますまい。女は市女笠を脱いだまま、わたしに手をとられながら、藪の奥へはいって来ました。ところがそこへ来て見ると、男は杉の根に縛られている、――女はそれを一目見るなり、いつのまに懐から出していたか、・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
あなたは私の申し上げる事を御信じにならないかも知れません。いや、きっと嘘だと御思いなさるでしょう。昔なら知らず、これから私の申し上げる事は、大正の昭代にあった事なのです。しかも御同様住み慣れている、この東京にあった事なので・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・が、御辞退申しましては反って御意に逆う道理でございますから、御免を蒙って、一通り多曖もない昔話を申し上げると致しましょう。どうか御退屈でもしばらくの間、御耳を御借し下さいまし。「私どものまだ年若な時分、奈良に蔵人得業恵印と申しまして、途・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・さあというと、屹と遊ばして、 とおっしゃるから、はあ、そりゃお邸の御新造様だと、そう申し上げると、(女中たちが、そんな乱暴なことをして済みますか。良人なら知らぬこと、両親 あれで威勢がおあんなさるから、どうして、屹と、おから・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・ああそうでない、それを申し上げる必要はないでしょう、別れてしまった以上は」 ことばには立派に言って別れたものの、それは神ならぬ人間の本音ではない。余儀ない事情に迫られ、無理に言わせられた表面の口の端に過ぎないのだ。 おとよは独身にな・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・の筆者、卑怯千万の芸術家の、その後の身の上に就いて申し上げる事に致します。女学生は、何やら外国語を一言叫んで、死んでいった。女房も、ほとんど自殺に等しい死にかたをして、この世から去っていった。けれども、三人の中で最も罪の深い、この芸術家だけ・・・ 太宰治 「女の決闘」
出典:青空文庫