・・・ 画布はまだかわかない。新しい絵の具はぬれたように光る。そこから発散する油の香いも私には楽しかった。次郎は私のそばにいて、しばらくほかの事を忘れたように、じっと自分の画に見入っていた。「ほら、お前が田舎から持って来た画さ。」と、私は・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・聞き終った父は、しゃがんで画筆を拾い上げ、再び画布の前に腰をおろして、「お前たちも、馬鹿だ。あの男の事は、あの男ひとりに始末させたらいい。懲役なんて、嘘です。」 母は、顔を伏せて退出した。 夕方まで、家の中には、重苦しい沈黙が続・・・ 太宰治 「花火」
・・・ すぐに第四号の自画像を同大の画布にやり始める事にした。今度はずっと顔を大きくしてそして前よりも細かく調子を分析してやってみようと思った。ところが下図をかき始めにはかなり大きくかいたのが、目や鼻を直し直ししているうちに知らず知らずだんだ・・・ 寺田寅彦 「自画像」
去年の春から油絵の稽古を始めた。冬初めごろまでに小さなスケッチ板へ二三十枚、六号ないし八号の画布へ数枚をかいた。寒い間は休んでことし若葉の出るころからこの秋までに十五六枚か、事によると二十枚ほどの画布を塗りつぶした。これら・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・栖鳳が人間臭い生活はそれとしてやって、画布に向った時は一種の芸術的境地とも言うべき雰囲気の中に入って花だの蛙だの鹿だのというものを画いてゆくのと、例えば藤村、秋声の作品とは大いに違ったところがある。日本画家が今日尚住んでいることの出来る風韻・・・ 宮本百合子 「今日の文学の鳥瞰図」
・・・ しかし両者の区別は、絵の具や画布などの相違の内に、もっと根本的に横たわっているのではないのか。僕は自ら絵の具の性質と戦った経験を有していないが、ただ鑑賞者として画に対する場合にも、この事を強く感ぜずにはいられない。油絵の具は第一に不透・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫