・・・しかしそのほかにも画面の景色は、――雪の積った城楼の屋根だの、枯柳に繋いだ兎馬だの、辮髪を垂れた支那兵だのは、特に彼女を動かすべき理由も持っていたのだった。 寄席がはねたのは十時だった。二人は肩を並べながら、しもうた家ばかり続いている、・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・少なくとも画面の大きさはやっと六尺に四尺くらいである。それから写真の話もまた今のように複雑ではない。僕はその晩の写真のうちに魚を釣っていた男が一人、大きい魚が針にかかったため、水の中へまっさかさまにひき落とされる画面を覚えている。その男はな・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・三郎はまた三郎で、画面の上に物の奥行きなぞを無視し、明快に明快にと進んで行っているほうで、きのう自分の描いたものをきょうは旧いとするほどの変わり方だが、あの子のように新しいものを求めて熱狂するような心もまた私自身の内に潜んでいないでもない。・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・会話が、少しもわからず、さりとて、あの画面の隅にちょいちょい出没する文章を一々読みとる事も至難である。私には、文章をゆっくり調べて読む癖があるので、とても読み切れない。実に、疲れるのである。それに私は、近眼のくせに眼鏡をかけていないので、よ・・・ 太宰治 「弱者の糧」
・・・ 浮世絵の画面における黒色の斑点として最も重要なものは人物の頭の毛髪である。これがほとんど浮世絵人物画の焦点あるいは基調をなすものである。試みにこれらの絵の頭髪を薄色にしてしまったとしたら絵の全部の印象が消滅するように私には思われ・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・たとえば極貧を現わすために水道の止まった流しに猫の眠っている画面を出すとか、放免された囚人の歓喜を現わすのに春の雪解けの川面を出すとか、よしやそれほどの技巧は用いないまでも、とにかく文学的の言葉をいわゆるフォトジェニックなフィルミッシな表現・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・ この律動的編成の巧拙の分かれるところがどこにあるかと考えてみると、これはやはりこの画面に現われたような実際の出来事が起こる場合に、天然自然にアルベール、すなわち観客の目があちらからこちらへと渡って歩くと同じリズムで画面の切り換えが行な・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・これが反対に画面の右端を左へ向いて駆けって行くのでは迫った感じが出ないであろう。 妖精の舞踊や、夢中の幻影は自分にはむしろないほうがよいと思われた。 この映画も見る人々でみんなちがった見方をするようである。自分のようなものにはこの劇・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・しかし実際はこの場合の巧拙を決定するものはほんのわずかな呼吸である。画面連続の時間的分配を少しでも誤れば効果は全然別のものになるであろうと思われる。要するに「かん」だけの問題である。 ナンセンスの中にのみほんとうの真実が存するという人が・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・とどなるのをきっかけに、画面の情調が大きな角度でぐいと転回してわき上がるように離別の哀愁の霧が立ちこめる。ここの「やま」の扱いも垢が抜けているようである。あくどく扱われては到底助からぬようなところが、ちょうどうまくやれば最大の効果を上げうる・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
出典:青空文庫