・・・「M病院といえば、その界隈で知らぬものがないほど、有名なものです。」と、その人は、答えました。「まあ、そんなにいいお医者さまが、あったのでございますか?」 婦人は、なぜ早くそれを知らなかったろう。そうすれば、こんなに長い間、この・・・ 小川未明 「世の中のこと」
・・・ 二 永代橋傍の清住町というちょっとした町に、代物の新しいのと上さんの世辞のよいのとで、その界隈に知られた吉新という魚屋がある。元は佃島の者で、ここへ引っ越して来てからまだ二年ばかりにもならぬのであるが、近ごろメッキ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・川口界隈の煤煙にくすんだ空の色が、重くこの橋の上に垂れている。川の水も濁っている。 ともかく、陰気だ。ひとつには、この橋を年中日に何度となく渡らねばならぬことが、さように感じさせるのだろう。橋の近くにある倉庫会社に勤めていて、朝夕の出退・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・わずかに、中之島界隈や御堂筋にありし日の大阪をしのぶ美しさが残っているだけで、あとはどこもかしこも古雑巾のように汚ない。おまけに、ややこしい。「ややこしい」という言葉を説明することほどややこしいものはない。複雑、怪奇、微妙、困難、曖昧、・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・夜ならば、千日前界隈の明るさからいきなり変ったそこの暗さのせいかも知れない。ともあれ、ややこしい錯覚である。 境内の奥へ進むと、一層ややこしい。ここはまるで神仏のデパートである。信仰の流行地帯である。迷信の温床である。たとえば観世音があ・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ 火の見へあがると、この界隈を覆っているのは暗い甍であった。そんな間から所どころ、電燈をつけた座敷が簾越しに見えていた。レストランの高い建物が、思わぬところから頭を出していた。四条通はあすこかと思った。八坂神社の赤い門。電燈の反射をうけ・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 富岡先生、と言えばその界隈で知らぬ者のないばかりでなく、恐らく東京に住む侯伯子男の方々の中にも、「ウン彼奴か」と直ぐ御承知の、そして眉をひそめらるる者も随分あるらしい程の知名な老人である。 さて然らば先生は故郷で何を為ていたかとい・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・またかと思うような号外売りがこの町の界隈へも鈴を振り立てながら走ってやって来て、大げさな声で、そこいらに不安をまきちらして行くだけでも、私たちの神経がとがらずにはいられなかった。私は、年もまだ若く心も柔らかい子供らの目から、殺人、強盗、放火・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・当時を想うと、新七はじめ、店の奉公人でも、近所の人達でも、自分等の町の界隈が焼けようなぞと思うものは一人もなかったのである。あの時ほどお三輪も自分の弱いことを知ったためしはなかった。新七でも側にいなかったら、どうなったかと思われるくらいだ。・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・ 井伏さんは、所謂「早稲田界隈」をきらいだと言っていらしたのを、私は聞いている。あのにおいから脱けなければダメだ、とも言っていらした。 けれども、井伏さんほど、そのにおいに哀しい愛着をお持ちになっていらっしゃる方を私は知らない。学生・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫